【第252号】鎌倉街道を歩く

皆さん、こんにちは。梅雨の季節になりました。くれぐれもご自愛ください。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は清洲から折戸宿に向かう街道筋についてお伝えします。先月の予告では折戸宿と黒田宿とお伝えしましたが、一部修正です。

清洲の長光寺

萱津宿から折戸宿に向けて出発しましょう。

街道を北上すると、ほどなく清洲の町に入ります。清洲城が築城されて以来、戦国時代は尾張国の中心でした。多くの先人が清洲に足跡を残しています。

清洲の中心部土田(どた)には、多くの社寺があります。
大吉寺と東勝寺はともに一一五五年に創建され、一四三九年、室町幕府六代将軍足利義教が富士山巡行の途中に詣でました。

将軍の富士山巡行は、幕府と対立する動きを見せていた鎌倉公方への牽制と言われていますので、両寺の寺号には深い意味がありそうです。

岩清水八幡宮は一一九〇年創建。源頼朝が眼病を患った際に当地の医者の治療で完治したことから、山城国の石清水八幡社を勧請して造営されました。

さらに北上すると、折戸宿との境辺りに長光寺があります。尾張六地蔵のひとつで、六角堂とも呼ばれます。

平頼盛が一一六一年に創建しました。頼盛の母は源頼朝を救った池禅尼です。一三三八年に足利尊氏が復興し、一六〇一年には松平忠吉から寺領を与えられるなど、古刹の歴史を感じます。

一二三五年造立と伝わる六角地蔵堂の本尊鉄造地蔵菩薩立像は、表面に結露することがあり、変事を予言する汗かき地蔵の異名があります。

長光寺の山門は美濃路に面しており、六角堂の左(西)を鎌倉街道、右(東)を美濃街道、岐阜街道が通ります。境内には寺の北西に立っていた四ッ谷追分道標が移設されています。四ッ谷追分は美濃街道と岐阜街道の分岐点でした。

岐阜街道は将軍に献上する鮎鮨を運んだ道であることから、鮎鮨街道、御鮨街道とも呼ばれていました。

本堂南奥にある臥松水は、織田信長お気に入りの井戸であったと伝わります。また、長光寺の南には豊臣秀吉の正室おねの父である浅野長勝の屋敷がありました。

長光寺の南域には亀翁寺、常楽寺、無量光院、安楽寺、青宮寺など、古刹が林立しています。

折戸(下津)宿

清洲から五条川を右手に北上すると、大江川を渡る前に折戸(下津)に至ります。

折戸は鎌倉街道の宿として、紀行文などにも紹介されています。十五世紀には守護所が置かれ、尾張の中心地でした。織田家が最初に居城を構えたのも折戸です。町の中央を鎌倉街道が南北に貫き、大寺院がいくつも甍を並べました。

鎌倉街道は五条川に合流する青木川に沿って北上します。折戸の集落には岐阜街道も通っていました。

しばし、折戸の歴史に思いをはせましょう。

織田氏は一三九八年、尾張守護斯波義郷の時代に、越前国織田庄の織田常松が守護代として弟常竹とともに入国したのが始まりです。一四〇〇年に下津城に入ったとの記録があります。この頃には、折戸は既に下津と呼ばれていたようです。

町に残る碑文には、下津城が尾張守護代織田敏広の居城であったこと、一四三二年に足利義教が宿泊したことが記されています。前述の富士山巡行は一四三九年です。将軍が鎌倉街道を何度も往来したことが伺えます。

岩倉城と清州城

一四六七(応仁元)年、応仁の乱が勃発し、主家である斯波氏は義敏、義廉の家督争いになりました。一四七五年、義廉が折戸に来たことが契機となり、織田敏広と分家の敏定の家督争いに発展します。翌一四七六年、敏広が敏定に敗れた際に折戸の町は戦火で焼かれ、下津城は焼失しました。

一四七七年、敏広は尾張北部を領して岩倉城に、敏定は南部を領して清洲城に居城しました。

下津にも多くの名刹があります。

阿弥陀寺は一二三九年創建です。十六世紀には一向宗の大寺院であったことから、一五六二年に織田信長から裁訴状を受け、一五七〇年、長島一向一揆の際に焼き打ちされました。

円光寺は七二三年創建の古刹です。聖徳太子作の聖観音像を奉じ、大いに繁栄していましたが、一四七一年、斯波義廉と織田敏定の争いの際に堂宇を焼かれました。

鎌倉街道は下津城址付近から東南に進み、下津二本杉の住吉神社に至ります。神社西には鎌倉街道の石碑が立ち、この辺りは折戸宿の中心として栄えました。

性海寺と尾張大國霊神社

鎌倉街道を青木川に沿ってさらに北上すると、尾張の代表的な古刹古社が現れます。来月は性海寺と尾張大國霊神社についてお伝えします。乞ご期待。