【第257号】堂々巡り

皆さん、こんにちは。11月になりました。もうすぐ本格的な冬です。朝晩は冷え込む日が増えます。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

「あっちがいい」「いやこっちだ」「やっぱりあっちだ」などと議論や意見がまとまらない時に「堂々巡りだ」ということがあると思います。この「堂々巡り」も仏教用語です。

仏教の「堂々巡り」は、お寺でお坊さんが修行や祈願のためにご本尊の周囲や本堂の周りをグルグル何回も回る儀式を指す言葉です。信者さんが回る場合もあります。

グルグル回って再び同じところへ戻って来るので、日常用語的には「議論の空転」「平行線の議論」「膠着状態」「行き詰まる」「万策尽きる」「手詰まり」というような意味で使われています。

「堂々巡り」の語源としては別の説もあります。昔、中国雲南省に二人の拳法の達人がいました。ひとりの名は堂高、もうひとりの名は堂虎です。

どちらも天下無敵と言われていましたので、お互いに意識し合い、人々は「どちらの堂が強いのか」と噂するようになったそうです。

いよいよ堂高と堂虎は雌雄を決するために勝負することになりました。しかし、いずれも達人。勝負は三日三晩続いたものの、両者ともに譲らず、決着はつきませんでした。その後も何度も両者が勝負したそうですが、やっぱり勝敗は決しませんでした。

そのため「勝負がつかない」「いつまでも同じことを繰り返す」という意味で、堂高と堂虎の名前を冠して「堂々巡り」という言葉ができたという説です。これが語源であれば、仏教用語ではないことになります。

余談ですが「堂に入る」という表現もあります。これは「物事に優れている」「物事が身についている」という意味ですが、論語の「堂に升(のぼ)りて室に入らず」に由来します。

中国古来の建物において「堂」は応接間、「室」は奥の間を指します。つまり、「堂」に入っただけでは十分ではなく、物事の真髄を修得するには「室」に入る必要があるという意味ですので、本来は「堂に入る」だけでは不十分で、「室に入る」必要がありますが、この表現全体を短縮して「堂に入る」が慣用句になりました。

ところで、神社にお堂はありませんので「堂々巡り」はしませんが、それに代わる祈願の儀式として「お百度参り」があります。

もともとは願掛けする神社に百日間参拝する「百日詣で」が原形ですが、病気快癒など急を要する祈願の場合は百日もかけていられないので、一日に百度参るという形に変わって「お百度参り」が誕生しました。その後、お寺でも「お百度参り」が行われるようになりました。礼拝した回数を間違えないように小石や竹串などを百個用意しておき、参拝のたびに拝殿や本堂や階段にひとつずつ置いていきます。 「堂々巡り」が仏教儀式なのか、拳法の達人の勝負のことなのか、語源論争は「堂々巡り」のようなので(笑)、今日はここまでにします。ではまた来週。