皆さん、こんにちは。紫陽花のきれいな季節になりました。でも、関節炎や神経痛が出やすいのが梅雨時。くれぐれもご自愛ください。

今年のかわら版は、日常会話の中に浸透している仏教用語についてお伝えしています。

日常の言葉の中に仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

五三八年に大陸から日本に伝わって以来、神仏習合、神仏混交の中で、生活や日常の中に深く根づいていった仏教。仏教用語が定着しているのも、もっともなことです。

多くの仏教用語を知ることを通じて、お釈迦様の教えを知り、心穏やかに過ごせることは無上の喜びです。

と表現したこの「無上」も仏教用語です。

あまり深い意味のなさそうな漢字の組み合わせですが、「上」が「無」いのですから、最高ということでしょうか。実は、最高という意味は誤った使われ方です。

サンスクリット語の「アヌッタラ」の漢訳が「無上」。音写では「阿耨多羅(あのくらた)」。般若心経でもこのくだりは音写でしたね。

「ア」を除いた「ヌッタラ」は「より高い」「より上」という他者との比較を意味しますそれを「ア」という冠詞で否定しているのが「アヌッタラ」「阿耨多羅」「無上」です。

他者と比較することを否定しているのですから、「無上」は最高の喜びではなく、上とか下ではなく、比較できない真実に接した感動を「無上」の喜びと言います。

「お釈迦様の教えを知り、心穏やかに過ごせることは無上の喜びです」という表現は、仏教的には正しいと言えます。何しろ、お釈迦様の教えは真実の教えですから。

仏教は生きるための哲学です。自分の考えや欲に執着することなく、自分と他人を比較したり、分別することなく、まわりの出来事をありのまま受け入れること。そういう姿勢が「無上」であり、「真実」。その「真実」も仏教用語です。

「真実」とはお釈迦様の教えそのもの、覚った後の存在をひと言で表している「如来」と同じことを表す言葉です。

ひとりでも多くの人が自分自身を見つめ、真実を見つめ、「空」「無常」「無我」の仏教の教え、般若心経の真髄を知ることは素晴らしいことです。

ひとりでも多くの人が自らの内面にある仏心に触れ、平和で穏やかな人間関係や社会を実現していきたいものです。

合掌。