【第136号】最澄と空海の時代10(最澄と空海の諡号)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の諡号(しごう)についてです。

諡号

大師号は、功徳のあった高僧に対し、朝廷(天皇)から贈られる諡号=贈り名(尊称)のひとつです。

諡号には、大師号のほかに法師号、国師号、禅師号などもあります。

意外なことに、大師号の始まりは、中国よりも日本の方が先と言われています。

日本では、八六六年、清和天皇が最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師を贈ったのが始まり。

一方の中国。公式な大諡号は、八七〇年、唐の懿宗帝が雲顥に三慧大師、僧徹に浄光大師を贈ったのが最初とされています。

しかし、隋の煬帝が智顗に智者大師を贈った記録もあり、慣行としては古くから行われていたようです。

弘法大師

八五七年、入定(八三五年)後二十二年を経て、文徳天皇が空海に大僧正の官位を追贈。

八六四年、清和天皇が空海の徳を讃え、法印大和尚を追贈。

そして、九二一年、醍醐天皇が弘法大師を追贈します。

時の東寺長者(管長)の観賢(かんげん)僧正は、天皇から下賜された御法衣を持って高野山に上り、奥の院御廟を開扉。空海の法衣を改めました。

都に戻った観賢僧正は、東寺灌頂院(かんじょういん)において、毎月二十一日の空海の月命日に法要を行う御影供(みえく)を定例化。

こうして、入定(にゅうじょう)=空海は亡くなったのではなく、今も高野山の奥の院で悟りの境地に入って衆生(人々)を見守っている=空海は生きているという受け止め方、弘法大師号、御影供という、弘法大師信仰の三要素が確立しました。

平安時代末期には、弘法大師信仰が篤くなり、東寺への参詣者が急増。東寺南大門前に一服一銭という茶屋が開かれました。

御影供法要の毎月二十一日に大勢の人で賑わう「弘法さん」の縁日も、その頃に始まったようです。

台密と東密

平安時代は七九四年に桓武天皇が平安京に遷都してから、源頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開府する一一九二年までの約四百年間を指します。

その平安時代初期に登場した最澄と空海。それぞれ、多くの弟子を輩出しました。

円仁は最澄入寂(八二二年)後、その遺志を継いで円珍とともに入唐し、密教を修得。円仁と円珍はそれぞれ山門派と寺門派(三井寺=園城寺)の祖となりました。その後、円珍も智証大師を賜っています。

円仁と円珍は天台密教(台密)を完成させただけでなく、唐から浄土教、浄土思想を日本にもたらしました。

比叡山中興の祖と言われる良源(九一二~九八五年)に師事した源信(九四二~一〇一七年)は、観心略要集、往生要集などを著し、浄土思想を広めました。

その後、源信の後輩たちから現在のほとんど全ての宗派につながる宗祖が生まれることになります。

一方の空海の弟子たち。八三五年の空海入定後、金剛峯寺(高野山)は真然(しんねん)、東寺は実慧(じちえ)、神護寺は真済(しんぜい)が継承。

弟子たちの努力もあって空海の名声は高まり、弘法大師号の追贈につながりました。そして、真言密教(東密)は、今日まで脈々と法統・門統を伝えています。

最澄の教え=照千一隅

その後の日本仏教の礎を築いた最澄と空海。来月は照千一隅(一隅を照らす)に代表される最澄の教えの一端をご紹介します。乞ご期待。