【第258号】鎌倉街道を歩く

皆さん、こんにちは。師走になりました。今年もご愛読ありがとうございました。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は中世鎌倉街道を東から西に歩き、題して鎌倉街道を歩く、をお送りしてきました。今月は最終回、高須藩と高須街道についてです。

高須藩の変遷

輪之内の中心は高須でした。

一六〇〇年、関ヶ原の戦いで高須城主高木盛兼は西軍に与したため、戦後に改易されます。東軍についた松ノ木城主徳永寿昌が代わって入城し、高須藩を立藩しました。

しかし、寿昌は大坂城石垣普請助役に任ぜられた際の任務遅滞を理由に改易されます。高須藩は笠松代官領を経て、一六四〇年に小笠原貞信が新たな城主として入封されます。

度重なる水害等への対応から藩財政は悪化し、藩政は安定せず、一六九一年に貞信は越前勝山藩に移封されます。以後、高須藩は幕府領を経て、再び笠松代官領となります。

一七〇〇年、信濃伊那郡、高井郡、水内郡内に三万石の所領を得て高井藩を立藩していた尾張藩二代藩主徳川光友の二男松平義行が高須藩主に任じられます。

所領の半分に当たる高井郡、水内郡の一万五千石の領地を、美濃国石津郡、海西郡内の領地と交換され、高須と伊那に領地を有する高須藩が成立しました。

この時期、幕藩体制が確立し、御三家筆頭の尾張徳川家にも、血統維持のために将軍家御三卿のような分家を設けることが検討されました。

尾張藩三代綱誠の異母兄松平義昌は陸奥梁川藩の大久保松平家、同母弟松平義行は美濃高須藩の四谷松平家としてそれぞれ独立し、異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田久保松平家となり、この三家が分家御連枝となりました。

分家御連枝は尾張徳川家に後継ぎがない場合に相続人を出す立場です。

高須藩主の松平家は江戸屋敷が四谷にあったことから四谷松平家と呼ばれ、江戸城中では徳川一門として大広間組に属しました。

幕末の高須四兄弟

その結果、高須藩三代藩主義淳は尾張藩八代藩主宗勝となり、五代義柄は九代宗睦の養嗣(相続前に早逝)、十代義建の二男義恕は十四代慶勝、五男で十一代義比は十五代茂徳となった後、御三卿一橋家当主の茂栄となりました。

また、義建の六男銈之允は会津藩主松平容保、八男範次郎は桑名藩主松平定敬となり、義恕、義比、銈之允、範次郎の高須四兄弟は幕末史で重要な役割を果たすことになります。

子沢山の義建の子は、ほかにも三男が石見国浜田藩主、十男が高須藩十三代藩主になりました。

宝暦治水

高須藩の領地のある美濃国石津郡、海西郡は、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川に囲まれた輪中地帯。度々水害に遭います。

藩財政は厳しく、御連枝の家格を維持するために尾張藩の援助を受け続け、毎年合力米などを供与されていました。重職である家老のみならず、郡代、用人なども尾張藩から高須藩に派遣されていました。

一方、尾張藩領を水害から守るために、川堤は尾張藩の御囲堤(おかこいづつみ)より三尺低くなければならないという幕府の命令もあり、このことも水害の原因になっていました。

この状況を改善するために行われたのが一七五四年から翌年にかけての宝暦治水です。幕府の命で薩摩藩士が動員され、薩摩藩は過酷な工事と財政負担に苛まれました。

藩士三十三名が病死したほか、難工事を押しつける幕府と尾張藩に抗議し、平田靱負をはじめとする五十一名が自害しました。

薩摩藩に対する幕府及び尾張藩による宝暦治水の押しつけは、幕末史の深層に影響しているかもしれません。

宝暦治水に対する人々の感謝の念は継承されており、昭和になって平田靱負を祭神とする治水神社が創建されました。

高須街道と行基寺

高須藩主は参勤交代の折に尾張藩主を表敬するのが通例となり、名古屋城下に向かう道のうち、高須から町方新田(佐織)までは高須街道と呼ばれるようになります。

「秋江の渡し」で木曽川を渡り、「元赤目の渡し」で佐屋川を渡り、町方新田で津島街道に合流し、勝幡村、甚目寺村、萱津村、枇杷島村を通って名古屋城下に向かいます。

高須より名古屋までは一日の行程であり、名古屋城下町では尾張徳川家の菩提寺建中寺や熱田神宮を参拝し、藩祖義直の源敬公廟が造営された定光寺まで足を伸ばした記録が残っています。

一七〇五年、行基ゆかりの寺院跡に高須松平家の菩提寺として行基寺が創建されました。高須産の河戸石を用いた城郭造りで、濃尾平野を一望できる山腹にあります。

名古屋城と名古屋城下町

 さて、いよいよ年末です。来年もご愛読よろしくお願いいたします。来年は名古屋城と名古屋城下町をお送りします。乞ご期待。それでは、よい年をお迎えください。