【第255号】鎌倉街道を歩く

皆さん、こんにちは。九月になりましたがまだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は真清田神社を参拝します。

真清田神社

先月は勝幡城に寄り道しましたが、北上して鎌倉街道を進みます。妙興寺から一里ほど北にあるのが真清田神社です。

社伝では、祭神の天火明命(あめほのあかりのみこと)が大和国葛城地方の高尾張邑を出て、当地で鎮祭されたのが始まりとしています。つまり、都からやって来た尾張氏の祖先が祭神ということです。

先代旧事本紀や天孫本紀に登場する尾張氏一族の倭得玉彦命が尾張を支配していた時期に神社が創祀されたと伝わります。尾張国創世期に誕生した神社です。

平安時代より国司赴任の際に最初に参詣する神社が一宮と呼ばれましたが、真清田神社は尾張国一宮です。この地域の一宮の地名は真清田神社の社格に由来します。

一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社、三宮は熱田神宮とされます。

祭神変遷

祭神を天火明命祭神とする説は江戸時代に唱えられたものです。それ以前には、国常立尊祭神や大己貴命祭神など、別の神を祭神とする複数の説が存在しました。

国常立尊祭神説は、室町時代末期頃の真清田神社縁起(古縁起)に記される説で、最も古い時代に遡ります。国常立尊は、神話では天地開闢の時に最初に現れた神です。

しかし近年では、古縁起が真清田神社を日本一宮と記していることから、伊勢神宮と比肩するために、より古い国常立尊が持ちだされたとの見方もあります。

一方、大己貴命祭神説は大日本国一宮記に記された説で、室町時代末期から江戸時代初期頃に遡ります。

中世末期から江戸時代までは国常立尊祭神説が主流でしたが、明治になると祭神は国常立尊のほか、天照大御神・月夜見神・大己貴神・大竜王神の五柱とされました。

しかし特選神名牒において、天照大御神が天火明命(天照国照彦天火明尊)の誤記と見なされ、かつ他の四柱が省略されて天火明命一柱とされ、以後は現在まで天火明命一柱説が採用されています。

祭神を巡る変遷と背景はともかくとして、とにかく由緒が古いのが真清田神社。尾張国が誕生した頃から続く尾張国一宮です。

尾張氏は鏡作部

現在の説に従えば、祭神は天火明命です。日本書紀や古事記では天火明命は天照大神の孫神(天忍穂耳命の子神)とされ、先代旧事本紀では饒速日命と同一視されています。

社名の「ますみ」を真清鏡(ますみのかがみ)、つまり鏡に由来する者として、尾張氏を鏡作部(かがみつくりべ)とする説もあります。

鏡作部は、古代において鏡の製作に従事した工人集団のことを指します。

文献における漢字表記は「真清田」「真墨田」の二種類が存在します。延喜式は「墨」を用いていますが、その後は「清」の表記が定着しました。

延喜式には美濃国各務郡に真墨田神社の記述があります。古代以前の伊勢湾の海岸線は尾張北部であり、尾張氏は美濃にも居住していましたので、そのことと関係があるのかもしれません。

桃花祭(とうかさい)

創建日とされる四月三日に行われる例祭は桃花祭として知られています。その昔は神社周辺に桃の木がたくさんあり、人々は桃の木の枝で身を清め、枝を木曽川に流して五穀豊穣を祈るようになったそうです。

真清田神社は古来多くの社領を有し、それらは真清田荘として荘園化しました。一二三五年の文献によると、社領は中島郡のほか葉栗郡、愛智郡、海東郡、海西郡一帯に広がっていました。

真清田荘は院政期の八条院領五荘のひとつであり、江戸時代の尾張名所図会にも詳しく紹介されています。

十五世紀前半からは佐分氏が神職を務めるようになり、幕末まで世襲しました。

一五八四年の天正大地震で社殿が崩壊、豊臣秀吉に社領も没収されて社勢は衰えましたが、江戸時代に入ると徳川氏から庇護を受けて復興。清洲藩主松平忠吉、尾張藩主徳川義直から寺領の寄進を受け、四代将軍徳川家綱からは朱印状が下されています。

真清田神社の東には、倭姫命(やまとひめのみこと)ゆかりの浜神明社があります。倭姫命は十一代垂仁天皇の第四皇女で、大和朝廷の祖神天照大神のご神体を奉じ尾張国中島宮に逗留し、天照大神を伊勢の地に祀りました。つまり、斎宮(いつきのみや)の伝説上の起源とされる人物です。

浜神明社は伊勢神宮逢拝所であったことから、鎌倉街道も神社前を迂回したと言われています。

黒田宿と黒田城

来月は鎌倉街道をさらに北西に進み、黒田宿と黒田城を訪ねます。乞ご期待。