【第254号】鎌倉街道を歩く

皆さん、こんにちは。立秋は過ぎましたが、まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は日光川と勝幡城についてお伝えします。

妙興報恩禅寺(妙興寺)

国府宮から北上すると妙興報恩禅寺(妙興寺)に至ります。

創建開山は滅宗宗興(めっしゅうそうこう)です。大照禅師とも称します。宗興は鎌倉時代末期、尾張国中島郡の在郷官吏中島氏の子として生まれ、中島郡矢合村の円興寺(現国分寺)で剃髪し、鎌倉建長寺の十三世大応国師の弟子となりました。

南北朝時代、この地方は真清田神社や曼荼羅寺を拠点とした南朝勢力が優勢であったため、北朝側の室町幕府は妙興寺を庇護することで対抗しようとしました。

妙興寺は室町幕府二代将軍義詮(よしあきら)から五山と同格に列せられて尾張国隋一の巨刹となり、以来、三代将軍義満から十代将軍義稙(よしたね)まで一貫して厚遇され、全盛期には七つの塔頭寺院がありました。

織田弾正忠家の勝幡城

妙興寺の北東には真清田神社があります。鎌倉街道は神社を迂回し、大江川に沿ってさらに北上して日光川を渡ります。川を越えて北に進むと伊冨利部神社前に至ります。

日光川は江南北部に源を発し、古くは萩原川(はぎわらがわ)と呼ばれ、木曽八流のひとつでした。一宮で野府川、稲沢で光堂川を集め、さらに古代の海東郡と中島郡に跨る地域で東西両側から領内川と三宅川が合流し、徐々に水量を増します。

合流部分の三角州地帯は勝幡と呼ばれ、津島街道が通る交通の要衝。織田氏が居城勝幡城(しょばたじょう)を築きました。

清洲三奉行家のひとつ、織田弾正忠家は良信、信定、信秀、信長と続きます。勝幡城は良信または信定が海西郡を手中に治めた際に築城。二重堀に囲まれた館城であり、三宅川が外堀の役目を果たします。

この地は元々塩畑(しおばた)と呼ばれていましたが、信秀が縁起を担いで「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名しました。

公卿の山科言継が著した言継卿記には、信秀から勝幡城に招かれ、城の規模と出来栄えに驚いたと記されています。津島湊を支配下に置いて経済力を蓄えていた織田弾正忠家の当時の勢いが窺えます。

一五三二年、信秀は今川氏豊から奪った那古野城に移ります。信秀の嫡男信長は勝幡城で産まれたと伝わりますが、那古野城説、古渡城説もあります。

一五五五年、信秀を継いだ信長が主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、勝旗城代は尾張野府城(のぶじょう)に移され、勝旗城はやがて廃城になります。

日光川流域の新田開発

日光川は、隣接する佐屋川や大膳川が蛇行するのに対し、直線的な流路で南下します。下流部ではさらに多数の河川を集め、飛島から伊勢湾へ注ぎます。河口付近は江戸時代の干拓地です。

日光川は全流域が木曽川の氾濫原であり、集落は自然堤防上に築かれ、民家には水屋と呼ばれる避難用の建物が築かれました。

平均勾配が極めて緩い河川であり、肥沃な農業地帯を形成した一方で、流域は繰り返し洪水に遭いました。

そのため、尾張藩は一六六六年から下流の開削工事を行い、翌年には蟹江新田を経て伊勢湾に注ぐ流路が完成しました。

一七八五年からは日光川、領内川、三宅川の三川合流点から下流の拡幅普請を行い、一八一二年に完成すると河川舟運が盛んとなり、年貢米の輸送にも用いられました。

江戸時代後期には下流部での新田開発が盛んになり、一八〇一年に飛島新田、一八二二年に藤高前新田が完成します。

一宮城

鎌倉街道に戻りましょう。真清田神社と大江川に挟まれた大江界隈にも古刹、古社が多数あります。

即得(徳)寺は、源義経に従って出羽国羽黒に落ちた鈴木三郎繁家の妻が地名を誤解して尾張国葉栗郡(丹羽郡)に来て、そこで夫討死の報を聞いて悲嘆。この地に永住し、その末裔が十四世紀に創建しました。

常念寺は一三九〇年に足利尊氏の甥、召運上人が開山。一六世紀末に兵火で焼失しましたが、一宮城主関長重が城の鬼門除けとして常念寺を現在地に移し再興しました。

一宮城は真清田神社の南に神主の関成重が神領を守るために一六世紀半ばに築城。子の関共成は織田信長、豊臣秀吉に仕えましたが、小牧長久手の戦いで討死し、一宮城は廃城となります。

福寿院は行基開創。弘法大師が真清田神社に参籠した折に塔堂を建立しました。

日光川と勝幡城

来月は尾張一宮の語源でもある真清田神社を参拝します。乞ご期待。