【第250号】鎌倉街道を歩く

皆さん、こんにちは。初夏が待ち遠しい季節になりました。とは言え、朝晩は冷え込む日もあります。くれぐれもご自愛ください。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は信長の稲生の戦いと万場の渡しの歴史を旅します。

末森城・那古野城・清洲城

 清洲城の東、那古野城北の庄内川左岸が舞台となったのが稲生の戦いです。織田信長と弟信行との家督争いを巡る戦いです。

 一五五二(天文二十一)年、織田信秀が亡くなると家督は那古野城の嫡男信長が継承したものの、家中には信秀晩年の居城末森城を継いだ次男信行を推す声もありました。

 信長は平素から素行が悪く、一五五三(天文二十二)年には傅役平手政秀が諫死する事件も起き、当主に相応しくないと思う家臣もいました。

 信長は、一五五五(弘治元)年、主家である清洲織田氏(大和守家)の織田信友を滅ぼして清洲城を奪い、那古野城は家臣の林秀貞が留守居役になります。

 この頃、三河国境に配した鳴海城山口教継が離反し、今川氏に寝返りました。一五五六(弘治二)年、美濃では政変が起き、信長の舅であり後ろ盾であった美濃国主斎藤道三が嫡男義龍との戦いで敗死。さらに尾張上四郡を支配する岩倉織田氏(伊勢守家)が義龍と手を結んで信長に敵対。信長を取り巻く情勢は厳しさを増していました。

 信長では家中をまとめられず、難局を乗り切れないと考えた林秀貞と信行家臣の柴田勝家等が結託し、信長を排して信行に家督を継がせようと画策。信行自身も正嫡を自称し、信長領を押領して砦を構えるなど、対決姿勢を鮮明にしました。

稲生の戦い

 こうした動きに対し、信長は佐久間盛重に命じて庄内川左岸に名塚砦を築かせ、遂に稲生原での合戦に至ります。

 信長軍は清洲南東の於多井川(庄内川)に進軍。東から来た柴田軍、南から来た林軍と戦いが始まりました。信長公記によれば、信長勢七百人に対し、信行勢は千七百人を擁していました。

 戦力差に加え、戦上手の柴田勝家に押され、信長勢は苦戦。柴田軍が信長本陣に迫った際には、信長の周りには織田信房、森可成等の重臣数人と中間ら約四十人だけという危機に立たされました。

 しかし、信房、可成両名が奮闘。柴田軍の将兵は、本来の当主である信長から怒声を浴びせられると怯み、退散したと伝わります。ルイス・フロイスの日本史には、信長は尋常でない大声の持ち主だったと記録されています。

 信長軍は勢いを取り戻し、信長自身が信行方重臣を槍で突き伏せ、信長勢は信行勢四百五十人余を討ち取りました。

 信行勢は敗走し、末森城と那古野城に篭城。信長は両城の城下を焼き払いました。

 末森城にいた母土田御前の取りなしで信行は助命され、清洲城で信長と対面して許されました。信行についた林秀貞と柴田勝家等も信長に謝罪し、忠誠を誓います。

 その後信行は再度謀反を企てますが、信行を見限った柴田勝家が信長に内通。一五五七(弘治三)年、信長が病に臥しているとして、見舞いのために呼び出された清洲城北櫓の天主次の間で謀殺されました。

万場の渡しと万場宿・岩塚宿

 さて、稲生から南下して鎌倉街道に戻りましょう。

 宮宿から北上して古渡で西に方向を変え、露橋から北西に進んで小栗橋を越え、豊臣秀吉生誕地を横目に歩くと、まもなく庄内川に至ります。

 小栗橋の名前は歌舞伎や狂言で知られる小栗判官に由来します。

 江戸時代の旅人は豊国神社を知りません。豊国神社は一八八五(明治十八)年創建だからです。江戸時代に豊臣秀吉について語られることはありませんでした。

 本殿東側に秀吉生誕地の石碑がありますが、出生地については、下中八幡宮、常泉寺辺りなど、諸説あります。隣接する妙行寺は加藤清正生誕地です。

庄内川を渡ると萱津宿に向かいます。

 近世東海道を旅する場合、「七里の渡し」の海路を避けたい旅人は、佐屋宿から川を下るか、萱津宿から陸路、鎌倉街道や美濃街道を進んで木曽川を目指しました。

 佐屋宿を目指して庄内川を渡る場所が「万場の渡し」です。

 万場の渡しは船頭を務める六軒が渡河を担いました。尾張名所図会の絵には馬二頭、人九人、駕籠一つ、船頭二人が描かれています。海路の七里の渡しは馬が乗れませんでしたが、万場の渡しは乗れたようです。

 万場の渡しを挟んで万場宿と向き合っていたのが岩塚宿です。両宿は一六三四(寛永十一)年に置かれ、二宿で一宿分の機能を果たす特異な宿駅でした。月前半は万場宿、後半は岩塚宿が人馬継立役を務めました。

 十七世紀頃の資料には、万場・岩塚は馬八十疋、寄馬百三疋と記されています。馬の継立拠点としては大きかったようです。

萱津宿

 来月はさらに西北に進み、萱津宿を訪ねます。日本武尊(やまとたけるのみこと)と関係の深い中世鎌倉街道の重要な宿場です。乞ご期待。