【第133号】最澄と空海の時代7(最澄と空海の訣別)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の訣別です。

高尾灌頂

八〇九年、空海は嵯峨天皇によってようやく入京を許されます。

その後、最澄の招きで高雄山神護寺に滞在。神護寺は最澄の施主(後ろ盾)和気(わけ)氏の氏寺。ここから最澄と空海の交流が始まり、最澄は空海から密教の教えを受けます。

八一二年、空海は十一月と十二月の二回、神護寺で最澄ら百四十五名に結縁灌頂(けちえんかんじょう)を行い、子弟関係を結びます。最澄四十六歳、空海三十九歳の時です。

この出来事は高雄灌頂と呼ばれ、灌頂の受者名を記した空海直筆の灌頂歴名は国宝に指定されています。

依憑天台宗と理趣釈経

結縁灌頂が行われて以降、空海と最澄はさらに交流を深めていましたが、思わぬ展開となります。

八一三年、最澄は天台宗が仏教の中心と説く依憑天台宗(えひょうてんだいしゅう)という本を執筆。
その中で真言宗の祖師のひとり、不空(ふくう)の教えを批判したと言われています。

その年の暮れ、最澄は不空の達意が盛り込まれた理趣釈経(りしゅしゃっきょう)、つまり理趣経の解釈本の借用を空海に申し出ます。

しかし空海は「不空の教えを批判しながら、その達意を説く本の借用を願い出るとは納得できない。悟りは書物からではなく修行から得られる」として断りました。

筆受と修行

最澄も空海も仏教の教えを学ぶ真面目な求道者。最澄は天台宗、空海は真言宗から究めようとしました。

筆受の伝統を重んじる最澄、修行からの悟りを説く空海。究め方の違いから二人は別々の道を歩むことになります。求道者の信念と言うことでしょう。

最澄の命で、空海のもとで修行していた最澄の弟子泰範(たいはん)。その泰範が最澄のもとに帰らなかったことも二人の訣別の原因という説もありますが、事実は必ずしも明らかではありません。

泰範自身が比叡山に帰り辛い理由があったため、空海が最澄にその旨を伝えたという説もあります。

経典の貸借や弟子を巡って二人が仲違いしたのではなく、求道者の信念から別々の道を歩んだと言えます。

徳一との論争

理趣釈経を巡る一件を契機に、最澄は空海から密教の教えを授かることを断念。

密教を究めることで朝廷の理解を得て、比叡山に大乗戒壇院をつくることを企図していた最澄。

以後はそれを諦め、奈良仏教(小乗)との論争を通じて天台宗(大乗)の正当性を証明することに注力しました。

八一七年、南都六宗のひとつである法相宗の高僧、東大寺の徳一(とくいち)との論争も始まります。最澄五十一歳のことです。

最澄と徳一の論争は、最澄が亡くなるまで続き、決着しませんでした。

高野山下賜

一方、結縁灌頂や嵯峨天皇の帰依によって名声を得た空海。

八一六年、空海は密教修行の道場として高野山下賜を嵯峨天皇に上奏。

まもなく下賜の勅許が下り、弟子の泰範、実慧(じちえ)が先に山に入り、開創準備に着手。

二年後の八一八年、空海も山に入り、いよいよ高野山開山。空海四十五歳の時です。

最澄の晩年

最澄は五十六歳で亡くなります。来月は最澄の晩年についてお伝えします。乞ご期待。