【第132号】最澄と空海の時代6(最澄と空海の交流)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは帰国後の最澄と空海です。

天台教学と密教

八〇五年、八か月半の唐滞在を終えて帰国した最澄。三十九歳のことです。

最澄の後ろ盾となっていた桓武天皇は病床にありましたが、最澄の帰国を大いに喜びました。

最澄は唐から持ち帰った経典や法具等の請来目録を朝廷に提出。

唐での最澄は天台教学を中心に学び、帰国後は天台法華宗(天台宗)を立宗しました。

僧が自ら悟ることを目指す小乗仏教に対し、天台宗は衆生救済を目指す大乗仏教です。

しかし、桓武天皇をはじめ朝廷が期待していたのは新しい密教に関する知識や法具。

最澄は八か月半の唐滞在中に密教の大家に教えを受けることはかなわず、期待に応えられませんでした。

それでも、天皇の命により、不十分な内容ながらも密教儀式である灌頂(かんじょう)や祈祷を行わざるを得ず、最澄は苦しい思いをしていました。

年分度者(ねんぶんどしゃ)

日本への仏教公伝は五三八年。初期の頃は、教学や戒律を十分に理解していない僧尼が増加。

納税義務のない僧尼や寺院の増加を抑制することは、朝廷にとって重要な課題でした。

そのため、平安京遷都や密教を中心とする新しい仏教を求める動きは、腐敗して政治に容喙(ようかい)するよう

なっていた奈良仏教と一線を画することが目的でした。

こうした中、当時は出家して正式な僧尼になることのできる人数を朝廷が制限。年分度者と呼ばれていました。

八〇六年、天台宗を立てた最澄は毎年二人の年分度者を認められ、宗派発展の礎を築きます。

ところが同年、桓武天皇が崩御。後ろ盾を失った最澄のその後の人生は、必ずしも順風満帆と言えない展開になります。

高階遠成の帰国船

一方の空海。八〇五年、長安で三か月間、密教の正統である恵果(けいか)和尚から極意を学びました。

同年八月、空海は恵果和尚から結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受けて伝法阿闍梨遍照金剛(でんぽうあじゃりへんじょうこんごう)となり、それを見届けるように恵果和尚は十二月十五日に亡くなりました。

空海と恵果。わずか数か月の実に運命的な師弟関係でした。

一刻も早く密教奥義を日本に伝えたい空海。留学生(るがくしょう)=私費留学生の空海は本来二十年間帰国禁止。処罰を覚悟のうえで帰国を目指しますが、そもそも船が出航しなければ帰れません。

ところが翌八〇六年、桓武天皇が崩御。平城(へいぜい)天皇の即位に伴い、急遽、唐に来ていた判官高階遠成(たかしなのとおなり)の船が日本に向かうこととなりました。

空海は高階遠成に事情を説明し、乗船を許されます。

帰国した空海は、京に向かう高階遠成に密教法具の請来目録を委ねます。

しかし、留学期間を勝手に短縮したことや、平城天皇が新しい密教に関心を示さなかったことから、空海は太宰府(九州)観世音寺に足止め。空海三十三歳の時です。

最澄と空海の交流

同じ遣唐使船団で唐に渡った最澄と空海。航海途上や唐滞在中は接点のなかった二人ですが、帰国後に交流が始まります。来月は最澄と空海の交流についてです。乞ご期待。