ノーベル生理学・医学賞に米国ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ教授とドリュー・ワイスマン教授が選出されました。新型コロナウイルスワクチンの実用化に用いられたメッセンジャーRNA(mRNA)に関する基礎技術開発の功績が評価されました。日本では研究者や研究業績の質量の低下から、今後はノーベル賞受賞者が減少することが懸念されています。この状況を打開することは、日本の各界が抱えている課題を解決することと表裏一体です。
1.NATO改めABC
今年6月20日、スイスに拠点を置くビジネススクールIMD(国際経営開発研究所)が毎年恒例の「世界競争力ランキング2023」を発表。日本は前年34位からさらに順位を落として過去最低35位。残念な結果です。
1位は2年連続のデンマーク、2位アイルランド(前年11位)、3位スイス(同2位)。欧州諸国が独占。4位はシンガポール(同3位)、アジア諸国では当然1位です。
IMDのプレスリリースを読むと「アイルランドは調査項目のうち『経済状況』が好転したことが主因」と説明。なお、米国は9位(同10位)、中国は21位(同17位)です。
アジア諸国では、シンガポールに続いて6位台湾(同7位)、7位香港(同5位)と続き、日本より上位にマレーシア、タイ、インドネシアが名を連ねます。日本はアジア諸国14ヶ国中11位。下から数えた方が早い状況です。
自虐的になっても仕方ありませんが、現状を客観的に認識することは反転攻勢や戦略構築の第1歩。まずはIMDの調査方法及び調査項目から日本の課題を洞察してみます。
調査対象は64ヶ国。世界57機関から収集した164の統計データのウェイトが3分の2、世界の経営者層6400人が回答する「経営者意識調査」(92問)の回答データのウェイトが3分の1を占めます。なお、日本の協力機関は三菱総研と経済同友会です。
「経済状況」「政府の効率性」「ビジネスの効率性」「インフラ」の4項目が調査対象。それぞれを5つの因子に分解して標準偏差法によって比較分析を行い、順位付けをします。
日本が4項目の中で最も高順位となったのは「インフラ」。建物設備のことではなく、基礎的・技術的・科学的・人的要素等の観点からの「インフラ」。つまり潜在力はあるということですが、それでも過去最低の23位(同22位)です。
景気・貿易・投資・雇用・物価の観点から評価される「経済状況」は26位(同20位)。雇用が5位(同2位)に対して物価は57位(同60位)。失業者は少ないが、物価動向が異常という対照的な見方です。
「政府の効率性」は42位(同39位)。この項目を構成する5要素のうち最悪は財政の62位(同62位)。財政状況改善は容易でないうえ、異常な金融緩和を10年以上続けている日銀と政府のアマルガメーション状態(統合政府状態)に対する厳しい見方です。
4項目で最悪は「ビジネスの効率性」の47位(同51位)。中でも「経営プラクティス」は62位(同63位)。「財政」と「経営プラクティス」が一番低評価ということです。
「ビジネスの効率性」をさらに要因分解した評価もあり、さらに興味深く、示唆に富んでいます。高順位は社会的責任2位、銀行セクター資産3位、顧客満足度3位、人材確保・定着4位。
一方、低順位は企業の機敏性、起業家精神、国際的な経験、国民文化、ビッグデータ・アナリティクスの活用はいずれも64位、柔軟性・適応性は63位、有能なシニアマネージャーは62位。対象は64ヶ国なので、64位はつまり最下位ということです。
最下位のうち「国際的な経験」という項目内容の説明では「国際的な仲間を作っていくためには機敏性、起業家精神も必要」と記されています。
このメルマガの前3回(Vol.517・518・519)は日本の社会・産業・企業・人々(自分自身も含む)の奮起を期待して、3部作的内容を記したところ、多くの読者から反応や問い合わせがありました。
とりわけ、前号(Vol.519)でお伝えした「日本はNATO(No Action Talk Only)」「言うだけで何もしない」に関する反応が多く驚きました(詳しくはバックナンバーでご一読ください)。先週のNHK日曜討論でも「NATO」を話したところ、これまた多くのリアクションをいただきました。
メルマガ前号では昨年外国海運会社の人から言われたと書きましたが、実は今年の夏に半導体関係の調査でオランダ、ベルギーに行った際にも関係者から言われました。日本政府や日本企業に対する隠語として密かに広がっているのかもしれません。
悔しいので「不言実行」の英訳を調べたところ「Action Before Words」。略称「ABW」はちょっと覚えにくいので、工夫しました。
「Action Before Consideration」(考える前に動け)略称「ABC」。日本政府や日本企業の行動ディシプリン、経営プラクティスとして定着させたいものです(笑)。
結果に対して3分の1のウェイトを占める「経営者意識調査」という手法では、国民性が出ます。とくに日本人は自国に対して自虐的・悲観的で自国に対して低い点をつけがちな一方、他国の人は自国に高い点をつける傾向があるようです。
屁理屈をつけて現実を認めたがらないのも日本人、日本社会の特性です。上記の事情から、自虐的・悲観的国民性を理由に「35位でも実際の競争力はもっと高い」「心配ない」という論理に逃げ込む向きもありますが、他国の人からの日本の評価が低いことには変わりありません。
IMD世界競争力センター所長アルトゥーロ・ブリス教授は日本の競争力について以下のように論評しています。
曰く「日本の競争力再生は、人材流動性を高め、新たな人材を集め、少子高齢化政策の改善なしには難しい。中小企業の生産性の低さ、低い給与水準、DXの遅れの改善も重要課題」
「従業員はリスキリングの機会や意欲も乏しい。男女間の差別的な扱いをなくし、非正規労働者に対する機会均等を実現することが必要。日本のエグゼクティブたちがマネジメントへの自信を失い、悲観的になっているのも、順位低迷の一因」と一刀両断にされています。
奮起しましょう。筆者(私自身)も頑張ります。
2.谷・河・海
9月19日、藤田医科大学とシンガポール国立大学(NUS)が医学分野の共同研究や遠隔手術の実証実験に関する協定を締結。21日、名古屋大学とNUSが学術交流や学生交換に関する協定を締結。
筆者は藤田医科大学の客員教授を務めていますが、同大学星長理事長から「NUSは協議の2日後に機関決定し、学長名の協定書が届いた」とのエピソードを聞きました。
まさしく「ABC」。しかし「考える前に動け」は「考えない」ことではなく、日常的に情報収集し、自己分析し、戦略を検討しているからこそ「即断即決」できると言えます。
日本のアカデミアや経済界では「研究が事業化できない」「事業化しても成功しない」理由として「死の谷」「魔の河」「ダーウィンの海」ということを語ります。しかし、本当にそれが理由でしょうか。
「死の谷」は米国カリフォルニア州中部にある最高気温が50度以上になる「Death Valley」と呼ばれる砂漠に因んだ比喩。谷に迷い込んで脱出した人が「死の谷」と呟いたことが端緒と聞きます。
その後、経済学で成長理論全盛期の1950~60年代に成長曲線における研究開発段階から事業化の谷間の俗称として定着したと伝わります。
「魔の河」は成長過程で遭遇する障害や困難を比喩する表現。米国テキサス州とメキシコの国境を分けるリオ・グランデ川支流に「Devils River」と呼ばれる川があり、米墨戦争時に斥候が「戦闘の障害になる悪魔の川」と報告したことが由来と聞きます。
「死の谷」と「魔の河」の違いは何でしょうか。明確な定義が共有されないまま何となくこの言葉が飛び交っていること自体が如何にも日本的。雰囲気で物事が動いていく日本は、用意周到で客観的な検討分析が不十分なために即断即決「ABC」ができない社会と感じます。
ここでは「死の谷」は「研究開発を事業化できないこと」、「魔の河」は「事業化における困難な障害に遭遇すること」と定義しておきます。
「ダーウィンの海」は競争の激しさを比喩する表現。進化論の提唱者であるチャールズ・ダーウィンに由来します。適者生存が進化論の真髄。基礎研究や事業も適者生存の競争に打ち勝たなければ成功しないことを意味します。
異説もあります。豪州ノーザンテリトリー州の都市ダーウィン沿岸はクロコダイルやアリゲータの生息地。凶暴な生物を相手に生き延びることは至難の業という意味が「ダーウィンの海」の語源との説です。
「死の谷」は医薬品の研究開発、事業化に関する比喩としてよく使われていましたが、最近では様々な分野の議論で飛び交います。
しかし日本だけが「死の谷」「魔の河」「ダーウィンの海」に直面するわけではありません。「谷・河・海」を他国が乗り越え、日本だけが乗り越えられないとすれば、日本固有の原因があるはずです。
何事かを成功させるには「リスク分析」と「戦略」が不可欠。新しい「アイデア」「イノベーション」も必要です。競合他社に先駆けて新たな戦略を展開して市場を切り拓くことが成功の要諦。そのための「人材育成」「チームビルディング」は経営手腕です。
それができないから「谷・河・海」に直面し、途方に暮れます。日頃からそれができていれば「谷・河・海」を乗り切れます。その差ではないでしょうか。
このメルマガでは度々「生産性」論議の間違いを指摘しています。生産性算出の際、分子は収益や売上、分母は投入される生産要素、すなわち労働・資本・技術・設備・土地・経営戦略・その他等々です。
日本では「生産性」と聞くと条件反射的に「労働生産性」が連想されますが、「労働生産性」は計算の「結果」であって「原因」ではありません。
経営手腕に長けた経営者が売上や収益を倍増させれば、社員の働きが従来と同じでも、計算結果としての「労働生産性」は倍増します。
経営者、経営陣の「リスク分析」「戦略」「アイデア」「イノベーション」「人材育成」「チームビルディング」等に関するスキルこそが「谷・河・海」を乗り切る鍵です。
もちろん、社員の頑張りによって「谷・河・海」を乗り切る場合もあるでしょう。しかし、それのみに依存する「人件費削減」「コスト削減」策は経営手腕とは言えません。
昨年9月、帝人、三井不動産、国立がん研究センターが再生医療に関する産学連携を発表。再生医療分野における「死の谷」を克服することを企図、と説明しています。
拠点となるのは三井不動産が開発した千葉県柏市にある「柏の葉スマートシティ」。国立がん研究センターの東病院・先端医療開発センターに隣接し、ここに帝人とJ-TECという企業が連携して医薬品開発・製造拠点を構築中と聞きます(まだ見学できていません)。
J-TECは日本で唯一再生医療製品を商用生産できる企業。日本初の「自家培養表皮」「自家培養軟骨」等、4つの再生医療製品をリリースしています。
研究者と企業が物理的・機能的に近接した拠点で働くことの相乗効果を期待しているそうですが、シリコンバレーの元祖「ネットカフェ」のコンセプトです。日本の「ネットカフェ」は全く別物になってしまいました。
藤田医科大学が9月30日にオープンさせた羽田空港に隣接する「先進医療研究センター」も同趣旨。「谷・河・海」を乗り越えるチャレンジです。
このエリアは筆者が内閣府副大臣の時にスタートさせた国際戦略総合特区のひとつ「殿町地区」。企図した方向に進んでおり、関係者の奮闘に期待します。
再生医療や癌ゲノム療法、不妊治療、最先端リハビリテーション等の高度医療に取り組み、多言語対応が可能な医療拠点を目指しています。
様々な分野で「谷・河・海」を乗り切る際に、ベンチャーキャピタルと政府という別の難題にも遭遇します。
確実なリターンだけを求めて「チャレンジ」に寛容でないベンチャーキャピタルは「ベンチャー」ではなく「フェロシャス(ferocious<どう猛>)キャピタル」と称すべきでしょう。それ自身が「ダーウィンの海」のクロコダイルやアリゲーターです。
キャッチアップと支援策等のアクションが遅い政府には政府自身の「ABC」が必要です。「ABC」ができない政府に依存することは、一緒に「谷・河・海」の犠牲になることを意味します。そういう政府を頼ることなく、自らの力で乗り切るべきでしょう。
3.国際バカロレア
かつて信頼できる友人投資家から「谷・河・海」を脱出して成功するための要素として「ダイバーシティ」「アライアンス」「マーケター」の3つが重要と聞きました。
何でもカタカナ(和製英語)にして意味が曖昧なまま拡散させるのは日本社会の欠点的特徴ですが、「ダイバーシティ」は「多様性」ということで浸透してきました。
「アライアンス」は「同盟」であり、研究や事業の「パートナー」です。最後の「マーケター」は、事業化のための市場分析、戦略立案等の担い手を指します。
上述のとおりIMD競争力分析において「企業の機敏性」「起業家精神」「国際的な経験」「国民文化」「ビッグデータ・アナリティクスの活用」は最下位(64位)です。
研究開発も事業化も今や地球規模。上記の要素における国際性が死活的に重要な時代になりました。「ダイバーシティ」は国際性そのものですし、「アライアンス」にも「マーケター」にも国際性は不可欠です。
今さらながら、「谷・河・海」を乗り越えるうえで、日本が島国・単一民族・閉鎖的社会であることの弊害度が増しています。子供や若者の教育の段階から国際化が課題です。
今日は最後に国際バカロレア(International Baccalaureate<以下IB>)について触れておきます。IBは1968年にスイス・ジュネーブで設立された非営利団体が運営する教育プログラム。日本の弱点克服のためにIBを本格活用することも一案です。
IBは当初、国際公務員や外交官の子供に世界共通の大学入学資格及び成績証明書を付与するプログラムとして開発されました。同時に、IBは平和な世界を築くために貢献する人材育成、全人教育を目標として掲げています。
IBは「理想の学習者像」として、探究する人、知識のある人、考える人、コミュニケーションが出来る人、信念を持つ人、心を開く人、思いやりのある人、挑戦する人、バランスの取れた人、振り返りができる人、の10タイプを明示。いずれも「谷・河・海」を乗り越えるためにも有用な人物像です。
現在、世界159ヶ国・地域で約5600校、日本では約160校が参画しているそうです。IBは4つのプログラムを提供しています。
PYP(Primary Years Programme)は3~12歳が対象。日本の小学校程度の基礎学力を身に付けます。MYP(Middle Years Programme)は11~16歳が対象。日本の小学校6年から高校1年までに相当し、次のDPへ進むためのスキル獲得期間。PYPとMYPはIB公式言語(英語等)ではなく、母国語で受講可能です。
DP(Diploma Programme)は16~19歳が対象。教程は2年間なので、日本の高校3年までに修了可能。大学入学準備コースであり、DP修了者は世界統一卒業試験に合格することで大学進学のためのIB修了資格(成績証明書)を獲得します。
CP(Career-related Programme)は高校卒業後に大学進学を希望しない16~19歳が対象。キャリア形成に役立つスキル習得を重視した職業教育プログラムが提供されます。
日本では、1979年からIB修了者を高校卒業者と同等以上の学力を有していると認定し、大学入試の受験資格が与えられています。
2013年、文科省とIBO(IB機構)の合意によりDPの一部科目を日本語で実施する「日本語DP」を導入。これにより、日本国内の中学・高校でIBを導入する条件整備が始まりました。「日本語DP」導入校を2018年までに200校とする目標が明示され、経団連もIBをグローバル人材育成に有効な手段と評価する声明を発表。
2015年、日本国内の学習指導要領とIBの教程内容を履修できる特例措置が講じられました。これに伴い、IB講義に対する高校の単位認定や英語による指導(授業)が可能となり、日本の高校卒業資格とIBの双方を取得できるようになりました。
文科省のデータによると今年3月末現在、日本にある認定校は207校。そのうち文科省1条校(学校教育法第1条に規定されている小中高校の卒業資格付与が可能な学校)は73校。因みに東海3県ではPYPは岐阜1校、MYPなし、DPは岐阜1校、愛知2校です。
近年、IBスコアを用いた特別入試を行う大学が増加。旧7帝大、東京6大学、関関同立、お茶の水・ICU・上智・中央等、主だった大学はIBスコア入試を実施しているそうです。
IBのメリットとしては、海外の大学へ進学し易い、国内の大学入試にも有利、独自のプログラムで語学力・表現力・国際性が磨かれる等が謳われています。
一方デメリットとしては、学費が高い、1条校が少ない、膨大な学習量と英語等での授業は生徒の負担が大きい、認定校が都市部に集中、修了者の進路や将来について未知数、IBに対応できる教員不足等が指摘されています。
なお、米国ではIBを高校卒業資格として認めているものの、大学入学資格として認めていない大学が多く、SAT(米国の高校生が受ける共通テスト)等を別途受験する必要があるそうです。
「谷・河・海」を乗り越えるためには子供であっても努力は必要ですが、筆者を含む大人たちも日本の弱点を克服できる次世代人材育成にために粉骨砕身が必要です。(了)