皆さん、こんにちは。いよいよ秋本番。朝晩は冷え込む日も増えてきました。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
先月号では、食欲の秋、スポーツの秋なので、美食三昧、スポーツ三昧の「三昧(さんまい)」についてご紹介しました。楽しいことばかりに没頭すると、刹那(せつな)的だとか、刹那主義だとか言われる向きもありますが、この「刹那」も仏教用語です。
「刹那」はサンスクリット語の「シャナ」の音写。実は時間の単位を表します。とりわけ、もっとも短い、つまり最小の時間単位が「せつな」です。
具体的にどのぐらいの長さかについては諸説ありますが、よく言われるのは弾指(指をひとはじきする)間に刹那が六十五回。指をひとはじきするのに一秒もかかりません。仮にひとはじき〇・一秒だとすると、その六十五分の一は〇・〇〇一五秒です。とにかくすごく短い時間を指します。
二世紀インドの高名な僧、龍樹(ナーガールジュナ)は「刹那」に具体的な時間的長さを設定することはせず、とにかく「極めて短い時間」「瞬間」であるとして、人間の「念」の時間と説明しています。
仏教では輪廻転生(生まれ変わり)が説かれており、お釈迦様の弟子たちが自分の前世や来世の心配ばかりするのを憂いて、「今この刹那を大切に生きなさい」と諭しました。「今」「ここ」を全力で生きることの大切さを教えています。
つまり、仏教的には「刹那」に否定的な意味はありません。その瞬間に「念」を集中する刹那主義も、決して後ろ向きの意味ではありません。その時々に集中する、真剣に念じるということであり、むしろ肯定的な意味です。
「刹那的な生活」「刹那的な人生」と聞けば、計画性のない、快楽主義の生き方という捉え方が日常会話での使い方ですが、仏教用語的には、その時々の生活や人生に集中して取り組んでいる姿を表します。
仏教用語的な意味を正確に日常会話的に表現すれば、「刹那主義」は言わば「瞬間主義」「現在主義」。一瞬、一瞬を大切にする充実した生き方とも言えます。決して快楽主義ではありません。
ここで出てきた「快楽」も仏教用語です。仏教用語的には「かいらく」ではなく「けらく」と読みます。
「無量寿経」というお経には「快楽安穏(けらくあんのん)」という表現が出てきますが、これは人々が「安楽に暮らし、浄土に暮らす」ことを意味します。
「刹那」も「快楽」も仏教的には決して悪い意味ではないのに、日常会話では逆向きに使われています。以前からお伝えしているように、日常会話の中に定着している仏教用語は、往々にして本来の意味とは逆向きに使われています。不思議なことですね。
それではまた来月、ごきげんよう。