五月になりました。かつては初夏の季節でしたが、最近は夏に近い五月です。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りします。今月は碁盤割です。

★武家地と社寺地

清洲越しでは、武家屋敷から町家まで、家財道具も含めて全てが清洲から名古屋に運ばれました。

名古屋城下町には西の樽屋町、東の赤塚町、南の橘町の三ヶ所に大木戸が設けられ、その内側が御城下とされました。一六一二年に検地が行われ、翌年には武家地と町人地の配置を決めるため、地割と町割が行われました。

地割は武家地、社寺地、町人地の区画割です。一方、町割は清洲城下から移転してくる各町への碁盤割街区の割当です。

武家地では、城郭を中心に重臣や藩士の屋敷が身分格式によって配置されました。御殿の南側には三之丸とともに、成瀬、竹腰両御付家老の屋敷や重臣の屋敷が並びます。東側、南東側は御付家老の中屋敷、下屋敷と上中級家臣団が配されました。

三之丸と重臣武家地と町人地の間、つまり碁盤割の一番北の街区には、評定所や奉行所などの藩政機関が置かれました。

御付家老を含む上中級家臣の区画の南側、碁盤割町人地の東側には、中下級藩士の武家地が南北に広がり、その東側には藩主の御下屋敷が築かれました。

下級藩士の武家地は町人地の南側と、名古屋城外堀の西側、つまり城下町の北西部に配置されます。北西部の武家地は、豊臣方と戦になった場合には、城を守る最前線になります。

武家地の外側には、尾張徳川家の菩提寺である建中寺が建てられ、南西に隣接する御下屋敷に沿って東寺町が造られました。

一方、南側の下級藩士の武家地の外側にも南寺町が造られ、城の北西側の堀川沿いには小規模ながら西寺町もありました。

碁盤割の町人地を、北は城と武家地で、東と南は武家地と社寺地で、西は堀川と武家地と社寺地で囲み、碁盤割の町人地の四方を守っているような配置です。

藩や城下町の経済が町人によって支えられていることを強く認識した家康が、城下町防衛の重要性を踏まえたうえで決めた配置と考えられます。

★碁盤割の町人地

堀川と武家地に囲まれた城の南側が碁盤割の町人地です。町人の職業などを示す清洲城下の町名をほとんど引き継ぎ、町が丸ごと移転しました。

碁盤割は東西が御園町通から久屋町通までの十二通十一丁、南北が京町筋から大江町筋までの十筋九丁で合計九十九街区となりました。

東南角四街区には東西の道がなく、二丁分で一丁の長方形の町割りとなったため、正確には九十七街区です。距離は、東西五十二町、南北五十五町のほぼ正方形の碁盤割り城下町です。

碁盤割の道幅については、二間、三間、四間と諸説あります。一間は畳一畳の縦の長さ(二メートル弱)です。

碁盤割の一街区は五十間(約百メートル)四方。街区内は道に接して町家が並び、街区の中央には会所と呼ばれる敷地がありました。会所には社寺や火の見櫓が設けられました。言わば、街区の共有地です。

町人地の「町」は単に地名を表すものではなく、その街区の行政組織、自治組織を意味します。町の自治は、両側の町家によるいわゆる「向う三軒両隣」を最小単位とし、街区によって連帯責任を負うこともありました。


因みに、武家地には「町」はありません。武家地の町名は通称として定着します。

一六六〇年の大火後に延焼対策として堀切筋が拡幅され、火除地として広小路が整備されました。広小路は幅員十三間であり、他の筋と比べると格段に広く、城下町の盛り場として発展していきます。

堀川と外曲輪

名古屋城築城と同時に城郭の西から熱田湊まで、福島正則を総奉行に堀川が開削されました。堀川は城下町への生活物資の運搬水路として重要な役割を担いました。

城下町の外側には、南は古渡、北東は矢田川、西は枇杷島を通る外曲輪の普請が計画されましたが、大坂夏の陣によって豊臣氏が滅びたために取り止めになりました。

城下町は歴代藩主によって徐々に整備され、十八世紀中頃の「名護屋図」にほぼ完成形の城下町が描かれています。

元禄年間(一六八八~一七〇四年)の頃、名古屋城下の人口は約十万人に達していました。藩士は約七千人であり、その家族も含む武家が約四万人、町人が約六万人です。以後、江戸時代を通して城下町の人口にはあまり変化がなかったようです。

一方、城下南の熱田宿の人口はこの頃約七千人でしたが幕末には倍増していました。

軍都名古屋

そもそも名古屋城と城下町は西から豊臣勢が攻めてきた時に備えて造られました。次回は軍事拠点としての名古屋城下町、軍都名古屋の特徴をご説明します。乞ご期待。