【第262号】名古屋城築城と天下普請

春本番ですね。ゴールデンウィークが待ち遠しい時期になりました。寒暖の差が大きい日もあります。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお伝えしているかわら版。今年は名古屋城と名古屋城下町。今月は名古屋城築城と天下普請です。

普請と作事

名古屋城は名城(めいじょう)、金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)、金城(きんじょう)の異名を持ちます。

一六一〇年、家康は名古屋台地(熱田台地北部)の北端に築城を開始し、尾張の中心であった清洲城下町を名古屋に移します。名古屋開府と清洲越しです。

築城は、普請(土木工事)と作事(建築工事)に分かれます。尾張と地縁の深い加藤清正を責任者とし、福島正則ほか五名が奉行に任命され、西国大名二十家の助役による天下普請が始まりました。

築城の最大の難問は石材の調達です。諸大名は美濃や三河、遠くは讃岐の小豆島から石材を運びました。

最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築き、延べ五百五十八万人の工事役夫が四ヶ月余で完成しました。

作事は幕府直轄工事として行われ、作事奉行に大久保長安、小堀政一ら九名、大工頭は中井正清を任じました。当時の正清は内裏や方広寺大仏殿の築造も担っていたため、正清の手代衆が現場の監督をしました。

一六一二年夏から本格的作事が始まり、家康から御殿より先の完成を命じられた天守は用材調達が遅れたために壁塗りに支障が生じる冬までの完成が危ぶまれました。

正清は内裏や大仏殿の大工を一時的に呼び寄せて突貫工事を行った結果、秋には懸案の壁塗りが完了。昼夜兼行の大工事によって年内に天守は完成しました。

縄張り

縄張は普請奉行の一人である牧長勝が命じられました。名古屋城は、それぞれの郭が長方形、直線の城壁、直角の角という単純な縄張りです。典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二之丸、南西を西之丸、北西を御深井丸(おふけまる)、南から東にかけて三之丸が取り囲みます。

豊臣方の侵攻を予想した西と北は水堀と低湿地によって防御されています。南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻く構造です。

総構え(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込むさらなる外郭も計画されましたが、大坂夏の陣が終わると外郭普請は中止されました。

本丸はほぼ正方形で、北西角に天守、他の三つの角に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいました。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の三つ。ほとんどの櫓や塀は白漆喰を塗籠めた壁面でしたが、本丸の北面のみ下見板が貼られていました。

本丸の三つの虎口のうち南(西丸側)大手口と東(二之丸側)搦手口の二ヶ所には、内側に高麗門と櫓門の二重城門で構成される枡形門、外側に大手馬出と搦手馬出の大きな馬出を構え、入口を二重に固めました。

外から馬出に入る通路は障害となる小石垣があり、本丸に背を向けないと通れません。一部の郭を占領されても本丸への進入を拒む構造で、虎口を攻めると別の虎口から出撃して撃退が可能です。馬出と桝形虎口の周囲は多聞櫓で囲まれており、侵入者は全方向から攻撃を受ける構造でした。

隅櫓は二層三階建てで他城天守に匹敵する規模。南東は辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、南西は未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)、北東は丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)です。

大天守と小天守

本丸には五層の大天守と二層の小天守が建てられ、大天守と小天守が橋台という通路で接続された連結式天守です。

大天守の大棟には金鯱一対が飾られ、使用された金の量は慶長大判一九四〇枚分と伝わります。

その南東側には、京都の二条城二之丸御殿とともに武家風書院造の双璧と言われた本丸御殿が立ち並びます。

江戸城、大阪城とも天守は江戸時代初期に焼失しており、江戸時代を通して現存した天守では名古屋城が最高峰です。

延べ床面積は最大で、体積は姫路城天守の約二・五倍、柱数・窓数・破風数等、多くの点で日本一を誇る名城でした。

大天守の最上階は窓が四面に広く取られ、砲弾戦に備えていました。壁面は大砲による攻撃を考慮して、樫の厚板を鎧状に組んでいました。

小天守は大天守の関門の役割を果たし、規模は他城の三層級天守を上回ります。

清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した一六一二年から藩祖義直が名古屋城に移った一六一六年の間に行われました。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺三社百十ヶ寺、清洲城小天守も移す徹底的なものとなります。

碁盤割

来月は城下町の形状についてです。名古屋城下町と言えば碁盤割です。乞ご期待。