【第259号】鎌倉街道を歩く

皆さん、あけましておめでとうございます。今年もかわら版をご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りします。今月は名古屋の町ができる前の沖積低地と洪積台地の歴史をお伝えします。

先史時代の尾張

名古屋城下町の地域は、西に庄内川の沖積低地が広がり、南東部に洪積台地、東部から北東部にかけては丘陵地が続く東高西低の地形です。名古屋城と城下町は熱田神宮とともに、地盤の良い洪積台地の上に乗っています。

尾張国の地域には約三万年前の旧石器時代から人々が住み始めました。約一万二千年前以降の縄文時代には多くの集落が誕生します。

その当時の海岸線は現在よりも相当北にあったため、洪積台地や丘陵の奥部まで海が浸入していました。その痕跡として名古屋の各地で貝の化石や貝塚が発掘されます。

後に名古屋城下町となる地域も海岸に面しており、その最南端部が宮宿であり、松巨島です。

縄文時代から弥生時代に変わる約三千年前の頃、名古屋の北西、北東、東、南東域に集落が誕生します。

やがて弥生人の集落は洪積台地の中に広がり、後の尾張国の基盤が形成されていきます。そして、畿内から来て住み着いた勢力の中に尾張氏の先祖が含まれていました。

洪積台地は名古屋台地、熱田台地、瑞穂台地、八事台地、鳴海台地に分かれていましたが、その後背地である東部丘陵地は尾張丘陵とも呼ばれ、地域ごとに竜泉寺丘陵、東山丘陵、鳴子丘陵、有松丘陵等の呼称があります。

木曽三川と日光川、庄内川の南東部の洪積台地と東部丘陵地に、尾張国の基盤となる人々の集落が形成されていきました。

河川の下流域には沖積低地が徐々に広がっていきます。庄内川、矢田川の上流は土砂や粘土の多い地域であり、それらが下流に堆積し、干潟や中州や自然堤防を生み出しました。ちなみに土砂や粘土の多い上流域は瀬戸や美濃であり、後に窯業が盛んになる地域です。

庄内川や矢田川の西を流れる木曽三川の中下流域にはさらに大規模な沖積低地が形成され、その上に古代東海道、佐屋街道、津島街道、鎌倉街道、美濃街道等が誕生します。

尾張氏の登場

神話時代から古代初期にかけて大和王権と関係の深い尾張氏がこの地域を支配していきます。

古代も五世紀から七世紀に入ると、尾張氏は畿内周辺地域における有数の豪族として台頭し、尾張氏の墳墓とされる断夫山古墳や氏神を祀った熱田社が造営されました。熱田社には三種の神器のひとつである草薙剣が祀られ、熱田神宮に発展していきます。

志段味や大高に残る古墳や古社の存在からも、こうした地域にも尾張氏が定住していたことが推察できます。

この頃には、東部丘陵域で須恵器(陶器の原型)の生産が始まり、陶器生産の中心地となります。美濃焼等の中世陶器は尾張の須恵器から発祥します。

六四五年、倭国は大化の改新によって隋・唐の律令制に倣った中央集権的な律令国家に移行します。地方も支配体制が整備され、尾張国は中島、海部、葉栗、丹羽、春部、山田、愛智、智多の八郡から形成されました。この地方の政治の中枢である国衙(こくが)は中島郡の稲沢に設置されます。

九二七年に全国の神社一覧である「延喜式神名帳」が編纂されました。尾張国では熱田社を始め、宮簀媛(みやずのひめの)命(みこと)を祀る氷上(ひかみ)姉子(あねご)神社、尾張氏の祖神を祀る尾張戸(おわりべ)神社など二十社以上が載っており、尾張氏と結びついた神社が尾張国各地に広がっていたことがわかります。

国衙と街道

古代国の国衙と大和王権の都との間には道が整備され、駅制が敷かれました。七世紀後半から八世紀にかけての前期駅路は、幅員四丈(約十二メートル)程度の直線的な規格であり、地形に応じた切盛土を行い、堅固な路面が造られました。

約四里(約十六キロメートル)ごとに駅(うまや)が設置され、用務を帯びた官吏等が駅鈴の交付を受け、駅馬を乗り継いで駅路を往来しました。

五畿七道(ごきしちどう)は大和王権が定めた律令制下の地方行政区画です。五畿は大和、山城、摂津、河内、和泉の五国、七道は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道を指します。五畿の中心である都と七道の間に敷かれたのが駅路です。

ちなみに江戸時代の五街道は、江戸を起点とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道を言います。

尾張国は古代東海道に属しており、駅路は道としての古代東海道になりました。尾張国内には両村、新溝、馬津の三駅が設けられ、後の中世鎌倉街道、近世東海道の原型が誕生します。

中世那古野荘

来月は中世尾張に進みます。現在の名古屋城下町北部に那古野荘が形成されます。乞ご期待。