【第257号】鎌倉街道を歩く

皆さん、こんにちは。十一月になりました。朝晩は冷え込む日が増えます。くれぐれもご自愛ください。

昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は街道を南に下って輪之内と呼ばれた輪中地帯に寄り道します。

街道が交錯する要衝

玉ノ井から木曽川を渡り、美濃国に少し足を踏み入れてみましょう。

この辺りは扇状地であり、洪水によって川の流路や街道も時代とともに変わる鎌倉街道の難所でした。

木曽川を渡ってさらに西に一里強進むと長良川に至ります。川の西側にあるのが墨俣宿。さらに西進して揖斐川を渡ると、大垣に入り、鎌倉街道の笠縫宿、東山道の青墓宿があり、中山道を東に行くと赤坂宿です。

つまりこの一帯は、古代東山道、中山道、鎌倉街道、近代東海道が交錯する交通の要衝でした。一帯の西側は関ヶ原です。

鎌倉街道の垂井宿には、中世、美濃国の国府、国分寺、国分尼寺がありました。畿内と東国との結節点です。

尾張国内の鎌倉街道の旅はこの辺りが境界でしょう。

輪之内の輪中

既に何度か記しましたが、かつての伊勢湾の海岸線は相当北に深く入り込んでおり、古代東山道や鎌倉街道は水害を避けた経路が選択されました。つまり、北寄り、山寄りの地域に道ができました。

墨俣まで戻ります。墨俣は近世宿場町として栄える前から、揖斐川と長良川に挟まれた長良川西岸に位置する交通の要衝です。「墨俣の渡し」があり、宿場近くに羽柴秀吉が墨俣城(墨俣一夜城)を築きました。

墨俣宿から東の尾張国に戻らずに、ここから南下して海津に向かいます。長良川と揖斐川に挟まれた中州地帯を輪之内と呼びます。

海津は幕末史において重要な役割を担った高須四兄弟の高須藩の領地です。西に養老山地と揖斐川を擁し、東の長良川、木曽川を渡ると津島街道につながる地域です。

海津の西側、養老山地沿いの一帯は縄文時代後半(約二五〇〇年前)には人々が定住していた古くから豊かな地域です。

鎌倉時代末期の一三一九年、洪水や高潮などの水害に苦しんだ農民たちが、下流側に堤防がない「尻無堤」に堤防を築き、集落全体を囲った最初の輪中、高須輪中を完成させました。

その後周辺の集落もこれに習い、この地域には数十の輪中が形成されます。養老山地の麓や揖斐川と長良川に挟まれた輪之内には多数の城や砦が築かれ、この地域を制することが、軍事上大きな意味をもっていたことが伺えます。輪之内の城や砦は、戦国史に翻弄されます。

輪之内の城郭

輪之内にはたくさんの城郭がありました。

今尾城は、文明年間(一四六九~八七年)に中島重長が築城。重長は美濃守護代斎藤利国の家臣でしたが、子孫は一五六二年織田信長の西美濃攻略によって滅亡しました。

その後、駒野城主高木貞久が今尾城へ移りましたが、一五八四年の小牧長久手の戦いで織田信雄に従ったため、秀吉軍に攻められ、戦後に秀吉の家臣吉村氏吉が入城。

一五八七年、青柳城から市橋長勝が今尾城に入りましたが、関ヶ原の戦いで東軍に属して戦功をあげて転封。

天領時代を経て、一六一九年、尾張藩御付家老竹腰正信が今尾城主となり、以後幕末まで竹腰氏の居城となりました。

駒野城は、正暦年間(九九〇~九五年)に瀬戸道明が小高い船岡山に築城。永正年間(一五〇四~二一年)に美濃守護土岐氏に従う高木貞成が城を奪取。高木氏は斎藤道三に従いましたが、織田信長の西美濃攻略によって織田氏の軍門に下りました。一五八四年小牧長久手の戦いで徳川家康・織田信雄軍として参戦。一六〇〇年関ヶ原の戦いでは西軍に加わりましたが、一族の高木貞利、貞友が東軍に属していたため、戦後は多羅へ転封されました。

松の木城は天正年間(一五七三~九二年)には吉村信実、吉村安実が居城し、織田信長、信孝、信雄に臣従。関ヶ原の戦いの頃には徳永寿昌が城主を務めていました。

長久保城は誓賢寺、根古地城は天照寺、津屋城は本慶寺辺りに築かれました。

八神城は永禄年間(一五五八~七〇年)に石田城主毛利広盛が築き、江戸時代には清洲につながる八神街道の起点となります。

福満寺の北側に築かれた福束城は関ヶ原の戦い頃は丸毛兼利の居城でした。兼利は西軍に与したため、東軍に属した松の木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝らに攻められて落城。兼利は大垣城へ逃れ、戦後は前田利常に仕えました。

高須藩と高須街道

輪之内の中心は高須。現在の海津辺りです。ここは尾張藩分家御連枝高須藩の領地でした。次回は高須藩と高須街道についてお伝えします。乞ご期待。