皆さん、こんにちは。いよいよ夏本番です。くれぐれもご自愛ください。
昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送しています。今年は中世鎌倉街道を東から西に歩いています。題して鎌倉街道を歩く。今月は性海寺と大國霊神社についてお伝えします。
万徳寺と性海寺
鎌倉街道を折戸(下津)宿から青木川に沿って北上すると万徳寺に至ります。
万徳寺は真言宗の大寺院です。創建は八世紀と古く、亀山天皇の勅願寺です。江戸時代には尾張国真言宗大本山として五十三末寺を擁しました。
万徳寺の南西約一里にもうひとつの真言宗の名刹、性海寺があります。万徳寺と性海寺は、後述する大國霊神社(国府宮神社)を挟んで東西に聳えます。
性海寺は空海が熱田神宮を参詣する途上に創建を勧進し、当地の豪族長谷部氏が平安時代に建てたと伝わります。十三世紀に熱田神宮大宮司の子息良敏が再興し、北条時頼、足利尊氏、浅野長政、徳川義直らの庇護を受けました。
当地の地名は大塚です。境内には地名の由来となった六世紀頃の円墳と思われる大きな塚があり、大王家と関係のある古代尾張氏の一族が居住していた証です。
大國霊神社と夜儺追神事(よなおいしんじ)
尾張大国霊神社は国府宮神社、国府宮とも呼ばれます。尾張国の国府があった地であることに由来します。
神社は尾張国府の創始とともに創建され、尾張国総社として信仰されてきました。
祭神の尾張大国霊神は、尾張氏が当地を拓く中で、土地の霊力を神と崇めたものとされます。言わば開拓神ですが、大国主命とする説もあります。
毎年旧暦一月十三日の儺追(なおい)神事、通称「国府宮はだか祭」は有名です。籤(くじ)によって選ばれた神男(しんおとこ)と呼ばれる儺負人(なおいにん)に触れると災厄や穢れが落ちるという言い伝えから、裸の氏子達が神男に群がります。災厄や穢れは土餅(どべい)と呼ばれる餅に移して土に埋めて厄落としをします。
儺負人は神事の三日前から儺追殿(なおいでん)に籠って精進潔斎に務めます。
境内は儺負人の登場を待つ裸男たちで埋め尽くされます。儺追神事の祭典が終わった夕刻、裸の儺負人が大挙した裸男の群の中に飛び込むと、儺負人に触れることで厄除けしようとする裸男たちの押し合い、揉み合いが繰り広げられ、一切の厄難を一身に受けて揉みくちゃにされた儺負人が儺追殿へ引きずり込まれます。
神職によってあらゆる罪穢を封じ込められた土餅を背負わされ、境内から追放された儺負人は、暗がりに土餅を捨てて後ろを振り返らずに帰宅、神職は捨てられた土餅を土に埋めることで厄払いを終えます。
国分寺と国分尼寺と四楽寺
国府宮神社からさらに西に進むと、国分寺、国分尼寺の辺り、矢合です。
十六世紀に創建された禅源寺の南には美濃街道の稲葉宿がありました。清洲城主織田信雄が小牧長久手の戦いの前に造らせたのが美濃街道の起源とされ、稲葉宿は美濃街道四番目の宿場です。
国分尼寺(法華寺)の東には三宅川に面して安楽寺があります。創建当初は観音寺と称し、国分寺の塔頭寺院であったようですが、室町時代に一宮の妙興寺の末寺になりました。
国分尼寺の西には善応寺があります。十三世紀初めに創建され、織田信長の鉄砲隊長であった道求一把が再興しました。
善応寺の南東方向には長暦寺があります。かつては長楽寺と称し、国分寺の四方に配置された四楽寺(正楽寺、平楽寺、長楽寺、安楽寺)のひとつです。
子生和橋(こうわばし)
鎌倉街道が通る赤池辺りにも社寺が多数建立されました。赤池という地名は、古来から泥田で蓮が自生していた土地に多い地名です。
この辺りの道筋は狭く、曲がりくねっており、金龍寺、等樹寺、白山神社、八剣神社等の間を縫うように進みます。
街道は大江川沿いに進み、三本池(三本木池)の横を通って子生和橋に至ります。
赤池周辺は、青木川、大江川等の木曽川の中小支流が乱流し、湿地帯が多く、旅人は歩くのがたいへんでした。赤池や三本池の池端は旅人の休憩場所にもなっていたと伝わります。池の脇に三本の大複があったので三本池です。
三十八所社の南に位置する子生和橋の碑文には、源平盛衰記に源行家が下津宿に陣を敷いてこの場所で戦ったと刻まれているほか、張州府誌に尾張藩祖義直がこの橋を架けたと記します。
地名と橋名の由来は、照手姫がこの地で安産したという伝承に因みます。
日光川と勝幡城
来月は少し南に下って、尾張の歴史に欠かせない日光川と勝幡城についてお伝えします。乞ご期待。