【第226号】大浜寺町を散策

皆さん、こんにちは。春真っ盛りの季節になりました。自粛疲れを癒して、春をお楽しみください。

昨年からお伝えしている 三河新四国八十八ヶ所霊場場。今月は大浜寺町の中を散策します。

大浜東照宮天

七十五・七十六番から大浜の集落を北上します。来た道を戻ること約百メートル、七十七番は東照山称名寺、時宗のお寺です。

開創は一三〇二年の古刹。戦国時代から江戸時代にかけて徳川家との関係が深くなったお寺です。

称名寺には、徳川家康の先祖、松平八代の始祖、親氏の古墓があります。徳川家菩提寺の岡崎大樹寺にも松平八代の墓所がありますが、これは家康が一六一五年に建立したものです。

当寺には、六代信忠の息女(家康公の大伯母)の念持仏であった聖観世音菩薩も祀ってあります。

六代信忠六代信忠は一五二三年、弱冠十三歳の嫡男七代清康に早々と家督を譲り、大浜郷に隠居しました。信忠三十三歳の時です。

松平八代、徳川家とゆかりの深い称名寺の境内には、大浜東照宮もつくられました。

七十八番は本堂西側にある東照殿。。

ご本尊(七十七番) 阿弥陀仏

ご本尊(七十八番) 弘法大師

ご詠歌 しんごんの 教えをひろむ 大師をば 念じて道を さとるなり

前田利家

七十七・七十八番から集落の中を北上。途中、樹齢三百年の大銀杏がある本伝寺の前を通って約百五十メートル進むと七十九番、南松山清浄院。浄土宗のお寺です。

一三三四年創建の古刹です。山門を入った右側に、加賀百万石の藩祖、前田利家公の先祖のお墓があることで知られています。

利家公は尾張国荒子村(現在の名古屋市)の荒子城主前田利春の四男です。その祖先のお墓が当寺にあるということは、前田家の元々の系譜は大浜辺りなのかもしれません。

それぞれ五輪塔ですが、高さ六十センチメートルが二基、八十センチメートル、九十センチメートルが各一基。今も手厚く供養されています。

八十番は山門を入って右にある南松殿です。

ご本尊(七十九番) 阿弥陀如来

ご本尊(八十番) 弘法大師

ご詠歌 きよき寺 真心こめて 拝む人 利益めでたし 南無大師さま

大浜大仏

七十九・八十番から約二百メートル、北上して再び旧大浜警察署の前を通って港橋を渡ると右側にあるのが八十一番 、南面山海徳寺。浄土宗西山深草派のお寺です。

かつては徳川家ゆかりの御朱印寺 。一八六九年、廃仏毀釈の影響で、伊勢神宮神領内の菩提山神宮寺の仏像約六十体が廃されそうになった際、海徳寺二十二代住職寂空和尚がそれらを救済するために譲り受け、伊勢から海路大浜に運んだそうです。

その中の丈約二・八メートルの大仏(阿弥陀如来)をご本尊とし、「大浜大仏」と呼ばれて親しまれています。愛知県一の大きさです。国の重要文化財に指定されています。

山門には丈二・二メートルの金剛力士像二体。八十二番は本堂内にある大仏殿です。

ご本尊(八十一番) 阿弥陀仏

ご本尊(八十二番) 阿弥陀如来

ご詠歌 大佛の 慈悲の御手に導かれ 今日も詣でぬ 大浜の里

永井直勝と宝珠寺

大浜では、番外四ヶ寺と三河新四国六ヶ寺で「大浜十ヶ寺巡り」を行っています。海徳寺の裏にある宝珠寺もそのひとつ。曹洞宗のお寺です。

天文年間に松平氏・徳川氏の家臣、長田重元は、織田氏に対抗するためこの地に羽城築城を命じられ、合わせて城の鬼門の方角に宝珠寺を建立しました。

本能寺の変の折、堺にいた家康は伊賀越えで畿内から脱出。伊勢から海路三河に戻った家康一行を、船を出して迎え入れたのが重元です。

息子の永井直勝は当寺で生まれました。直勝は、小牧・長久手の戦いや大坂の陣などでの武功で知られる武将。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主を務めた永井家初代です。

医聖と呼ばれた徳本(とくほん) は重元の兄弟。徳本の遺徳を偲んで境内には徳本稲荷を祀り、「トクホンサン」の愛称で親しまれています。

のちの子孫に、作家の永井荷風、三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいるそうです。

清沢満之と西方寺

海徳寺、宝珠寺の向かい側には、明治時代の仏教界の偉人のひとり、清沢満之(まんし)ゆかりの西方寺があります。来月は西方寺から訪ねます。乞ご期待。