【第134号】最澄と空海の時代8(最澄の晩年)

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄と空海の訣別です。

高尾灌頂

皆さん、こんにちは。最澄と空海の時代についてお伝えしている今年のかわら版。今月のテーマは最澄の晩年です。

山家学生式と顕戒論

南都仏教(小乗)との論争によって天台宗(大乗)の正当性を証明すること、比叡山への大乗戒壇院の設立。このふたつを晩年の目標と定めた最澄。

八一八年、比叡山に大乗戒壇の創設を宣言。しかし、朝廷や僧綱(そうごう=僧尼を管理するための官職)は認めません。

同年、最澄は山家学生式(さんげがくしょうしき)をまとめます。天台宗僧侶の教育方針や戒律などを記した規則であり、四条式、六条式、八条式の三部の総称です。

当時の戒壇院は、東大寺、薬師寺(下野)、観世音寺(大宰府)の三か所のみ。

一方、最澄は天台宗には独自の戒壇院が必要であると主張。論争を巻き起こしました。

八一九年、論争の末、僧綱に大乗戒壇院設立を拒否されます。

八二〇年、最澄は顕戒論(けんかいろん)を著します。

大乗戒壇院設立の主張に対する僧綱や南都六宗の批判への反論であり、朝廷にも提出しました。

また、大乗の思想をまとめ、新しい宗派の設立の正当性を朝廷に訴えたものでもあります。天台宗成立の理論的根拠となりました。

大乗戒壇院

同じ頃の空海。八一六年に嵯峨天皇から高野山を下賜されます。

最澄が大乗戒壇院開創を巡って南都六宗と論争していた八一九年の夏頃から、高野山での本格的な伽藍建築が開始されました。

そして、最澄が亡くなる八二二年、空海は東大寺に灌頂道場真言院を開設。最澄とは対照的な動きとなっています。
最澄入滅は八二二年六月四日。五十六歳の生涯でした。

入滅直前に、嵯峨天皇から大乗戒壇院開創の勅許がようやく下りました。しかし、朝廷から勅許伝達の文書が届いたのは亡くなってから七日後でした。

七歳違いの最澄と空海。それぞれ桓武天皇と嵯峨天皇を後ろ盾として、天台宗と真言宗を興した日本仏教の二大巨頭です。

このお二人がいなければ、その後の日本は、仏教のみならず、社会の様相も異なる姿となったことでしょう。

道心の中に衣食あり

最澄の遺言は弟子の光定(こうじょう)が伝えています。

曰く「道心(どうしん)の中(うち)に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし」。

道を求める志があれば、衣食は自ずと何とかなる。衣食を考えての行動からは志は生まれないことを諭しています。

また、次のようにも述べたそうです。曰く「わが為に仏を作る勿(なか)れ。わが為に経を写す勿れ。ただわが志を述べよ」。

最澄は弟子たちに物や儀礼で自らを弔うことを戒め、ただ一心に志を継ぐように諭しました。

空海の晩年

一方の空海。八一八年、四十五歳の時に高野山を開山。以後、空海は数々の偉業を成し遂げます。

八二一年、空海の故郷、讃岐(香川県)の満濃池を修築します。空海四十八歳のことです。

来月は空海の晩年についてです。乞ご期待。