【第76号】弘法大師の生涯10(空海ゆかりの史跡、名刹)

皆さん、こんにちは。秋本番。夜は肌寒い日も増えました。くれぐれもご自愛ください。弘法大師の生涯をお伝えしている今年のかわら版。今月は空海ゆかりの史跡、名刹です。

四国霊場

弘仁六年(八一五年)、空海が開創。この年、四十二歳。厄年の自分自身と人々の厄難を除くために、かつて修行で行脚した寺を札所と定めて祈願。

天長年間(八二〇年代)の頃、托鉢僧に酷い仕打ちをした伊予(愛媛)の豪族衛門三郎。後にその僧が空海と知り、わが身を恥じ、許しを請うために札所を順に空海を追った(順打ち)ものの、会うことはできませんでした。そこで今度は逆向きに進み、疲れ果てて阿波(徳島)十二番札所焼山寺近くで行き倒れになりそうな時に、ようやく空海が現れ、許しを得ました。

一心に巡礼すれば願いがかなうという大師信仰や逆打ち(さかうち)の起源となりました。また、空海入定(にゅうじょう)後、高弟真済(しんぜい)が師を偲んで足跡を辿ったことが巡礼の始まりとも言われています。

平安時代から鎌倉時代には修行僧によって巡礼が行われていましたが、室町時代から江戸時代初期にかけて庶民の間でもお遍路が定着しました。

高野山金剛峯寺

弘仁九年(八一八年)開創の高野山金剛峯寺。空海四十五歳の時です。

寺域は標高八五○メートルの山上に開けた盆地。東西五キロメートル、南北二キロメートル、十平方キロメートルに及び、「八葉(はちよう)の峰」と呼ばれる高野山の山並みに囲まれています。

寺域のほぼ中央に位置する金剛峯寺を中心に百十七寺院が散在。人口は約四千人です。空海が名づけた金剛峯寺は、山内の総称としても使われています。

金剛峯寺の西側には高さ四十九メートルの根本大塔と弘法大師御影を祀る御影(みえ)堂。

東側には奥の院。一の橋から約二キロメートルの参道を上りきると、貧者の一燈で知られる燈籠堂。その奥には弘法大師が入定している御廟(ごびょう)。杉の巨木に囲まれています。

参道に沿って並ぶ十万基を超える墓石群。上杉謙信、織田信長、春日局などの墓石もたたずんでいます。

八幡山東寺

東寺は平安京を護るために、遷都の二年後の延暦十五年(七九六年)、桓武天皇が南大門(羅城門)近くで建立を始めた官寺。山号はあまり知られていませんが八幡山。教王護国寺とも呼ばれています。

弘仁十四年(八二三年)、嵯峨天皇が真言密教の根本道場として空海に下賜。空海五十歳の時です。天長元年(八二四年)、空海は造東寺別当に任命され、伽藍の完成に腐心しました。

空海が十年の歳月を費やして完成させた講堂の中には立体曼荼羅。日本一の高さを誇る五十五メートルの五重塔。国宝大師堂は西院御影堂、不動堂とも呼ばれ、空海の住房でした。

文明十八年(一四八六年)の火災で多くを焼失しましたが、豊臣秀吉や徳川家康の庇護で再興。南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南北一直線に並ぶ伽藍配置は平安時代のままです。

空海の教え

唐に出発する前に逗留した高野山最教寺(長崎)、帰国後、入京が許されるまでの間に滞在した佐白山観世音寺(福岡)、入京後に宿営した高雄山神護寺(京都)、大慈山乙訓寺(京都)なども、空海ゆかりの名刹です。

来月は心の安寧、人々の安穏を希求した空海の教えに触れてみます。乞う、ご期待。