【第267号】東照宮・那古野神社・若宮八幡

九月になりました。朝晩は冷え込む日も出てきます。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお伝えしています。今月は東照宮・那古野神社・若宮八幡についてです。

三之丸東照宮

豊臣氏の滅亡を見届けた徳川家康は、一六一六年、駿府城で他界。家康の遺言に従って幕府は久能山に東照宮を創建。朝廷は東照宮に「東照大権現」の神号を宣下し、家康は神格化されました。翌一六一七年、幕府は日光に東照宮を創建。

その後、各地の徳川・松平一門が東照宮を創建。三代将軍家光が諸大名に造営を勧奨し、譜代大名や徳川家と縁戚関係のある外様大名も競って東照宮を造営。全国の東照宮は大小合わせて約七百社に及びました。

尾張藩の藩祖義直は、父家康の三回忌である一六一八年に大祭を行い、翌一六一九年、南天坊天海を導師として、名古屋城三之丸の亀尾天王社(那古野神社)の西隣に家康の神像を祀る東照宮を造営しました。三之丸東照宮とも呼ばれます。

本殿は権現造で楼門、唐門、渡殿、祭文殿等があり、社殿は極彩色で飾られ、全国の東照宮の中で最も華麗であったと言われます。社領の広さは三千六百坪に及びました。毎年四月の祭礼には近隣の町から山車が出るようになりました。

現在の社殿は義直夫人の高原院(春姫)霊廟として一六五一年に万松寺内に建てられたものが、建中寺に移築された後、さらに東照宮に移されたものです。

遷座不可の那古野神社

東照宮東隣の亀尾天王社は那古野神社と呼ばれるようになりますが、創始は九一一年と古く、祭神は素戔嗚尊です。

醍醐天皇の勅命で八王子社や若宮八幡社の隣に建立されました。津島牛頭天王社(津島神社)を総本社とする天王社のひとつであり、創始当時の祭神は牛頭天王でした。

一五三二年、織田信秀が今川氏豊から那古野城を奪う際の合戦で社殿を焼失しましたが、一五四〇年、信秀が再建しました。

一五九五年には、豊臣秀吉が社領を寄進しています。

一六一〇年、家康が那古野城址に名古屋城築城を下命。縄張りの結果、八王子社、若宮八幡社とともに、那古野神社も城内に入ってしまうこととなり、家康はその扱いについて御神籤で神意を拝伺します。すると那古野神社は遷座不可との神意が示されたため、止め置かれることになりました。

結果として、那古野神社は二之丸大手門正面、三之丸に鎮座することとなり、名古屋城と城下町の総鎮守として信仰されました。 後に境内に別当寺である亀尾山安養寺(天王坊)も建立されました。

那古野神社の祭りは、京都八坂神社祇園祭、津島神社天王祭と同様に、疫病と厄難除けの天王信仰の祭りであり、江戸時代後期の最盛期には二台の車楽(だんじり)と十六台の見舞車、合計十八台の山車が曳きだされる名古屋城下町自慢の祭礼として親しまれました。

「芸処名古屋」の中心、若宮八幡宮

一方、大須の北側に移転させられた若宮八幡宮の創始は、八世紀初めの文武天皇の時代に遡ります。

那古野神社と同様に一五三二年、織田信秀の那古野城攻めの際に社殿を焼失し、一五三九年に信秀が再建しました。後にやはり豊臣秀吉も社領を寄進し、一六一〇年、名古屋城築城の際に移転しました。

江戸時代には、境内に常設の芝居小屋が架けられるようになり、「芸処名古屋」の中心地となります。

若宮八幡宮の若宮祭りは、東照宮祭り、天王祭り(那古野祭り)とともに名古屋三大祭りと呼ばれ、若宮八幡宮から那古野神社への神輿神幸は七台の山車が行進する壮麗なものでした。

若宮八幡宮の若宮祭りと那古野神社の天王祭は同じ日に催され、祇園祭と総称されました。

古代海岸線の洲崎神社

若宮八幡宮を西進し、堀川近くまで行くと洲崎神社があります。古代、この地に海岸線と入江があったことから洲崎という地名が生まれ、地神(石神)が祀られていました。

広大な社地を誇っていましたが、名古屋城築城に伴って社地内に武家屋敷が建てられ、境内も堀川開削にかかるなど、その姿は大きく変わりました

広井天王、牛頭天王とも呼ばれ、江戸時代の洲崎の天王祭は東照宮の時代祭と並ぶ二大祭と言われました。

洲崎神社では五色の鈴がつくられています。藩祖義直が城下の疫病退散を祈願して五鈴を奉納したことに由来するそうです。

洲崎神社近くの堀川沿いには尾張藩の船奉行を務めた千賀氏の屋敷があり、その周辺には水夫たちの家が集まり、水主(かこ)町と呼ばれるようになりました。

大須観音・万松寺・東西別院

名古屋城下町は寺社仏閣には事欠きません。来月は大須観音・万松寺・東西別院などについてお伝えします。乞ご期待。