【第267号】如意不如意

皆さん、こんにちは。酷暑の夏も終わり、9月です。朝晩は思いのほか肌寒い日も出てきます。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

仕事の帰りに一杯どうですか」というノミニケーションは今や昭和の香り。「今日は手元不如意でちょっと無理」と言ってやんわり断る「手元不如意」という表現は「今日はお金の持ち合わせがない」という意味。今や昭和の言葉ですが、意外に便利な言葉です。

「不如意」とは「意のままでないこと」「思い通りにならないこと」です。仏教ではそれを「苦」と表現します。「苦」はパーリ語の「ドゥッカ(dukkha)=思い通りにならないこと」の漢訳です。逆に「如意」は「何事も意の如く」「思い通りになること」です。「楽」はパーリ語の「スッカ(sukha)=思い通りになること」の漢訳です。

何ごとも思い通りにならないこと、すなわち「不如意」であれば「苦」。何ごとも思い通りになること、すなわち「如意」であれば「楽」。人間の本能的な欲を表しています。

「西遊記」の孫悟空が持っている伸縮自在の不思議な棒は「如意棒」と言います。孫悟空は如意棒を駆使して妖怪や怪物を退治します。
説法や法会(ほうえ)の時に、僧が持つ、手のような形をした道具を「如意」といいます。手の届かない痒いところも意のままに掻ける、説法が様々な疑問や悩みを意のままに解決するという連想から「如意」と命名されたのです。

その「如意」に端を発して孫悟空の「如意棒」が誕生。孫悟空が対峙する妖怪や怪物は人間の煩悩を暗喩しています。如意不如意の本質を理解すれば、どんな煩悩も退治できるという含意です。

この世はそもそも「思い通りにならない」ものです。にもかかわらず「思い通りにしよう」と思うから「不如意」と感じ「苦」しくなります。そのことを理解すれば、「苦」しくなくなります。

諦めて生きるということではありません。目標に向かって努力することは必要です。でも、成否はわかりません。成功も失敗も、出会いも別れも、幸運も不運も、人生においては必要な時に必要なことが起きる、ただそれだけのことなのです。

そのことが腑に落ちれば、生きることは「如意」と感じるようになると諭しているのが仏教です。覚りの境地ですね。思い通りにしたいと思う「我(エゴ)」「欲」がなくなれば、ゆきすぎた「我欲」もなくなります。

鴨長明「方丈記」に曰く「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。自分という存在も含め、この世のすべては「諸行無常」。移り変わりゆくものです。何かに拘り、執着し、「如意」を追求することこそ「不如意」です。

生きること、老いること、病むこと、死ぬことからは、誰も逃れられません。思い通りになりません。生老病死に「如意」はなく、人生はそもそも「不如意」。思い通りにならないことを思い通りにしようとしないこと、それが仏教の教える「如意」の秘訣です。

ではまた来月。