皆さん、こんにちは。十一月です。今年もあとひと月足らず。寒い日が増えてきましたので、くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介してきました「かわら版」も来月が最終回です。長らくのご愛顧、ご愛読、ありがとうございました。 

政治家としての筆者も縁日でも何度も演説ををさせていただきましたが、この「演説」も実は仏教用語です。「演説」はインドの古語、サンスクリット語では「ニルデーシャ」と言います。教えを演(の)べて説(と)くこと、お説教することを意味します。自分の主義主張ではなく、お釈迦様の教えを説き示すことが仏教における「演説」の意味です。

いろいろなお経に登場します。維摩経には「如来は一音をもって法を演説したまひ」、雑阿含経にも「諸の衆生の為に、演説し開発し顕示したまふ」と記されています。

平安時代の貴族であり文人の源為憲の著わした仏教説話集「三宝絵詞」には「諸仏の国土も又々かくの如しといふ。これよりはじめて互いにふかく妙法を演説し、諸の善事等をあらはししめす。」と記されています。

他のお経や文献にも登場します。要するに、「演説」は「説経」「説法」「唱導」等々と同じ意味で仏教語として使われていました。

ところが、明治時代以降に使い方が変化してきました。

江戸時代以前は、主張や意見は口頭で伝えるよりも、文書(書状)にして手渡すことが一般的でした。つまり、英語で言う「スピーチ」に該当する言葉や作法はありませんでした。

明治時代になり、福沢諭吉が高名な著書「学問のすすめ」の中で「演説とは英語にて『スピイチ』と云ひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝うるの法なり」と述べています。つまり、「演説」という表記は福澤諭吉とその門弟、慶應義塾関係者によって「スピーチ」の訳語となり、選挙の際の「演説」等々の使われ方が広まっていきました。

福沢諭吉の出身地である旧中津藩には、藩主への上申に用いられていた「演舌書」という文書がありました。これに関連して、福沢諭吉が「舌の字は餘(あま)り俗なり、同音の説の字に改めん」(福澤全集緒言)としたことが「演説」という言葉の端緒です。

一八七四(明治七)年六月二十七日、第一回三田演説会がひらかれ、福沢諭吉ほか十四人が演説をしました。これが演説会の初めとされます。
この日の演説会で、福沢諭吉は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を附けることが必要」と説きました。彼の言う「演説」とは英語の「スピーチ」を意識したものであり、ここに「スピーチ」の和訳として「演説」という日本語が当てはめられました。

本来は仏教用語であった「演説」ですが、その後は「演歌」という言葉の語源にもなりました。すなわち、明治時代の自由民権運動の中で、藩閥政府を批判する演説会に対する当局の監視が強くなった折に、当局の圧力をかわす政治を風刺する歌として「演説歌」が誕生したことが始まりです。やがて短縮して「演歌」となりました。「講演」という言葉も「講義し演説する」という言葉が短くなったものです。

意外な言葉も仏教用語がルーツですね。では、来月は最終回になります。