皆さん、こんにちは。十月です。今年もいよいよあとふた月足らず。夏の酷暑、猛暑とは打って変わって寒い日が増えます。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

「相続」と聞けば遺産相続が頭に浮かぶのが普通ですが、「相続」も実は仏教用語です。仏教用語としては「因果が連続して絶えないこと」を意味するそうです。

「相」は手相、人相の「相」であり、仏教的には「姿」を表す漢字です。ここでは「心の姿」を意味します。

「続」は単なる連続ではありません。仏教では「この世のあらゆる物事は諸行無常、常に移り変わって姿かたちを変えていくが、決して絶えることは無く、永遠に連続する」ということを意味します。「因果」が連続して絶えないことを意味します。

喩えて言えば、蠟燭(ろうそく)の火に似ています。蝋燭の火は、物理的(現象的)には、一瞬で燃え尽きては消え、その直後に別の火が燃えて、見た目にはずっと燃えているように見えるのだそうです。

その一瞬を「刹那(非常に短い時間)」と言い、燃えては消え、消えては燃え、絶え間なく連続する火の「相(すがた)」こそが「続く」という意味です。

「心」も蠟燭の火と同じです。心は常に変化し、一瞬たりとも同じ状態を続けることはありません。「心」はずっと「相続」しています。人間の細胞は毎日たくさん死滅し、また新たに生まれます。

「心」も同じです。一瞬前の自分と今の自分は別の「心」を抱いていますが、人の「心」は因果、因縁の結果として連続しており、そのような「心」のあり様を説明した言葉が「相続」です。そして「相続」は自分の心だけでなく、先祖の教え、思い、心も継承することを意味します。

つまり「相続」の「続」は「非連続の連続」です。難解ですが、そういうことだそうです。この「非連続の連続」という概念は仏教では大切なもののようです。

仏教的な「相続」は「心の相続」を意味しますが、残念なことに遺産相続を巡る争いは人の世の常。遺産相続の揉め事を揶揄して「相続」を「争族」と記すこともあります。

子どものために遺産を残さないのも親心。「児孫(子孫)のために美田を買わず(残さず)」という言葉を聞いたことがあると思います。この言葉は西郷隆盛さんが書いた漢詩「偶成」に由来する一節ですが、西郷さんの意図は「子孫を甘やかすな」という意味だったという説もあります。

「争続」を解決するには最後は裁判所で引導を渡してもらうしかありませんが、「引導」も仏教用語です。葬儀において亡くなった方を彼岸に導くために、棺の前で導師が唱える教語(法語)または教語を授ける行為を指します。「安らかに眠ってください」という労(ねぎら)い、労(いた)わり、感謝の気持ちを込めて「引導」を渡します。

ではまた来月。

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