皆さん、こんにちは。6月です。梅雨の季節になりました。腰痛などにお気をつけてください。朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
今年も高名な寺院にお招きいただいてお坊さん相手に仏教の話をさせていただいています。冗談のような本当の話です。と言って使った「冗談」も元々は仏教用語です。
日常会話に登場する「冗談」はちょっとふざけた話、面白い内容、時に笑えるような会話を指しますが、仏教用語の「冗談」の本来の意味は違います。
仏教では修行に関係ない無用な話を「冗談」と呼んでいるようです。「冗」という漢字には「無駄」「不要」「余り」という意味があります。
「冗談」とは「無駄話」ということです。やがて、仏道修行以外の場でも用いられるようになり、現在の日常会話に登場するような使われ方に転じていきました。
「冗」という漢字にそういう意味があるので、「冗舌」「冗長」等々の言葉の意味もよく理解できます。「冗舌」はよく喋ること、「冗長」は必要以上に長いことをそれぞれ表現しますが、必ずしも悪いニュアンスばかりではありません。
「あの人は冗舌だ」と表現する時には「話が上手だね」というニュアンスもあります。コンピューターや工場設備の分野では「冗長な構成」という場合は「余裕のある構成」というニュアンスもあります。
「冗談」と言えば、ダジャレ(駄洒落)、オヤジギャグの類も含まれますが、ツボにはまると大受けしますね。そんな時には「冗舌」に「冗談」を言った人の面目躍如です。と言って使った「面目」も仏教用語です。
人にはいろいろな「面」があります。その「面」の核心部分が「目」です。つまり「面目」は人格あるいは人物そのもの、言わば全人格を意味します。
個人ではなく、人間一般に当てはめると「人間とは何か」「人間の本質」を問う言葉になります。
「面目」に「真」がつくと「真面目」です。日常用語的には冗談を言わないような人柄を指しますが、「真の面目」ですから仏教用語的には「しんめんぼく」と読み「人間の本質中の本質」という意味になります。
「面目ない」「面目丸つぶれ」「面目を保つ」等の日常会話的な使い方では「世間体」「体裁」「対面」等の意味に転じています。
仏教は欲や執着に囚われないことの大切さを諭しています。その本質を体得できれば、つまり本来の「面目」が得られれば、日常会話的な「面目」は気にならなくなります。
仏教用語的な本来の「面目」の意味を考えれば、日常会話的な「面目」は小さなことで、つまらないものですね。「世間体」ではなく、欲や執着に囚われない「人間の本質」を体得できれば、「世間体」は気にならなくなります。
ではまた来月。