皆さん、こんにちは。立春も過ぎ、春が待ち遠しい季節になりました。でもまだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
寒い季節は暖かいうどんや蕎麦が食べたくなります。さて、食べる前に入れるのは一味ですか、七味ですか。この「一味」も実は仏教用語です。
雨は地上の全てのものに平等に降り注ぎます。大小様々な草木を潤し、それぞれの性質に応じて成育させます。お釈迦様は全ての人々に同じ教えを説きましたが、人は個性や能力が違いますから、受け止め方は人それぞれ。お釈迦様の教えがひとつであることは「一味の法」「一味の雨」と表現されます。
お経の中に「味の異なる川の水も、海に入れば一味となる」という喩えがあります。個性や能力が違って受け止め方は人それぞれでも、お釈迦様の教えの真髄を覚れば同じところに行きつくことを示している表現です。
親鸞聖人の「高僧和讃」には「衆悪(しゅあく)の万川(ばんせん)帰しぬれば、功徳(くどく)の潮(うしお)に一味なり」と記されています。無数の川の水が海に流れ出れば同じ一つの海の水になるように、善人でも悪人でも老若男女だれでも、仏教を真剣に聞けば全ての人が完全に平等で自由になれる唯一の世界に到達できますよ」という意味です。やはり親鸞聖人の「正信偈」にも「如衆水入海一味」という表現が登場します。
平安時代末期に編まれた歌集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」は後白河法皇が編者と伝わります。その中に「釈迦の御法(みのり)は唯一つ、一味の雨にぞ似たりける、三草二木は品々に、花咲き実なるぞ、あはれなる」と記されています。三草二木(様々な草木)はそれぞれに差はあっても、みな雨に潤されて育ち、役に立つことを意味しています。転じて、仏教は貴賤貧富や男女の差なく平等無差別の「一味」であることを伝えています。
お釈迦様は人それぞれの個性や能力に応じて「一味」の教えを工夫して説いたと言われています。それが「対機説法」「応病予薬」です。しかし、その教えの内容は「一味」です。
そこから「一味同心(心を一つにして味方にする)」「一味徒党(同志の仲間)」という表現も生まれました。同じ目的を抱いて結束すること、同じ目的で集まる心の通い合う同志や仲間のことです。若い人には馴染みの薄い言葉ですね。
日常会話に浸透した仏教用語は往々にして本来の意味とは逆の使われ方をしています。「一味」も本来は「人間は皆同じ」という意味ですが、犯罪グループの「一味」等々の逆向きの言葉としても使われています。
「七味」はお経には登場しませんが「うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ・いやみ・ひがみ・やっかみ」という人を苦しめる七つの性質に喩えられることがあります。お釈迦様は「七味」に囚われることを戒めています。
お釈迦様の「一味」の教えを体得すれば「七味」に囚われることもありません。ではまた来月。