皆さん、こんにちは。今年も師走。何かとお忙しいと思いますが、風邪などひかぬよう、くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
今年は年初から株価が高騰しましたが、後半は金融政策や世界の政治経済情勢を巡って一進一退。投機筋も目まぐるしく動きました。この「投機」も実は仏教用語です。
仏教あるいは禅の言葉で「機」とは「心」あるいは「心のはたらき」を意味します。「心」を「投」じるとは、弟子が師の教えに「心」を「投」じて意思の疎通、意識の共有を図ることを表現しています。
弟子が「投機」することで、師と弟子の「心」が通じ合うことを「心機投合」と言いますが、日常用語的には「意気投合」に転じていきました。
師は仏の教えを覚り、その教えを弟子に説いているのですから、「心機投合」つまり「投機」した師弟は、欲に囚われたり、執着することから解き放たれている状態にあります。弟子や修行者が大いなる覚りを開く行為が「投機」です。
仏教的には素晴らしく深遠な言葉である「投機」が、現世では株や債券や為替に「投機」するという使われ方をしています。欲から解放されることを意味する「投機」が、欲に執着する意味の「投機」へと、百八十度転じています。
日常用語的、とりわけ金融用語的な「投機」は、何と何が「意気投合」するのでしょうか。儲けたい一心で「投機」するのですから、それは「儲けたい自分の心(相場の予想)」と「実際の相場の動き」が「意気投合」することを意味しています。自分の心と相場を合致させようと「投機」する人たちは「投機筋」と言われます。とくに強引に相場操縦を試みる「投機筋」は「仕手筋」とも言われます。
「仕手」は能や狂言の世界で「演技する人」を指します。本来の「投機」は覚ることであって、演技することではありません。相場を当てるため、相場を操縦するためには、相場の展開を覚る必要があるということでしょうか(苦笑)。
日常用語の中に浸透した仏教用語の多くは、本来の意味と真逆になっています。その言葉を使う人間自身が我欲の塊であるが故です。本質を捉えるという意味の「投機」が、相場の動きを捉える、果ては操縦するという「投機」に転じたのは、人間の我欲の真骨頂。人間はガリガリ亡者です。
ガリガリ亡者は漢字で書くと「我利我利亡者」。これも仏教由来の言葉です。「我の利」すなわり「自利」ばかりを追求する亡者は「利他」の心を目指す仏教徒とは真逆です。
「本来無一物(むいちもつ)」「放下着(ほうげじゃく)」という言葉もあります。前者は南宋の慧能禅師、後者は唐の趙州和尚の言葉です。「我利我利」を「放下着」して「本来無一物」であることを覚ることで「投機」の境地に至ります。
「投機」の本質を知ると相場の「投機」でもかえって成功するかもしれません(笑)。いや、そう考えることこそ「我利我利亡者」(苦笑)。
長らくご愛顧いただいておりますかわら版ですが、来年からは山門に置かせていただきますので、ご自由にお取りください。それでは皆様、よい年をお迎えください。