皆さん、こんにちは。酷暑の夏もようやく8月後半。もう少しの辛抱です。熱中症等に気をつけて、くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
天気予報で「危険な暑さです」という表現をよく聞くようになりました。「無事に夏を乗り切りたい」という表現が合う危険な酷暑です。「無事」という言葉も実は仏教用語です。
一般的な意味での「無事」とは、何事もない、普段と変わりのないことをいいます。しかし、仏教での「無事」とは、何か起こっても、何事も有っても、事もなく、何事もなかったかのように普段と変わりなく過ごすことをいいます。
良いも悪いもいろいろ起きます。でも、動じてはいけないのです。何かは起こるけど、何事もなく、普段と変わりのないように過ごせる境地、これが仏教の「無事」です。風が吹いても気にもしない、嵐が来ても気にしない。それが「無事」です。
明治時代の正岡子規は、晩年大病を患いました。死と向き合う病床の中で禅を学び、仏教の本質を体得したそうです。その正岡子規が「病床六尺」という著書の中で「禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ねることだと思っていたが、それは間違いだった。どんな場合でも平気で生きていけることだとわかった」と記しています。
死を身近にとらえ、いつ死んでもいいように生きていくのではなく、どんな時でも、どんな状態でも平気で生きていく。これが「無事」の本当の含意です。
中国唐代の臨済宗の開祖臨済義玄禅師が著した「臨済録」に「無事是貴人」という言葉が登場します。茶道界では年の瀬に催される茶席にこの言葉を記した掛け軸が掛けられることが多いそうです。一年間災難に遭遇することなく安泰に過ごせた喜びとともに、年の瀬、師走の喧騒の中でも日々乱れることなく、無事に新年を迎えられることを祈って、この言葉を重用していると聞きました。
仏教用語としての「無事是貴人」の本来の意味は若干異なります。正岡子規の気づきのとおり、「無事」とは覚りを開いた動じない心を言います。貴人とは「貴族」の貴ではなく、動じない心を身に着けた「貴ぶべき人」と言う意味です。
臨済禅師曰く「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)即(すなわち)無事」。求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という教えもありますが、「求心歇む処」が無事の境地です。そのような人が貴人です。
逆に「有事是人生」という言葉もあります。何事かが有るのが人生、すなわち人生とは良いことも悪いことも、いろいろ起きます。そういうものだと覚悟して(覚って)、日々生きていくことを諭しています。良いことが起きても、悪いことが起きても、一喜一憂せずに平気で生きていくことが「平穏無事」です。
「無事是貴人」の境地に至るには「有事是人生」と覚悟を決めて、常に「平穏無事」な気持ちで過ごすことができれば心穏やかに暮らせます。覚悟とは「覚る」「悟る」ということであり、覚悟を決めれば恐れることは何もありませんね。ではまた来月。