皆さん、こんにちは。立秋は過ぎましたが、まだまだ暑い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
夏は海に出かけて釣りをする人も多いと思います。釣ろうと思っていたのと違う種類の魚が釣れると「外道(げどう)が釣れた」と言うことがあります。何だか魚がかわいそうですね。この「外道」も実は仏教用語です。
「外道」とは仏教用語で覚りを得る「内道(ないどう)」に対する言葉です。経典によっては「異道」「邪道」と記している場合もあります。わかりやすく言うと、要するに「内道」は仏教のことを指しています。
仏教では、全ての結果には必ず原因があると考えます。しかし、その原因だけが結果を生んだのではなく、他の要因も影響して結果が起きると考えます。
他の要因とは、心がけ、環境、偶然など様々です。それも何かの縁と考えます。この「因果因縁」の捉え方は仏教の本質です。普遍的に成り立つ真理ですから「因果因縁」の道理に反する教えは「外道」と言われました。
お釈迦様が生きた時代のインドには、仏教が「六師外道(ろくしげどう)」と呼んだ六人の仏教以外の思想家がいました。その六人は「因果因縁」の道理に反することを教えていました。
六人の思想家にはそれぞれ十五人の弟子がいましたので、師匠も加えて各派十六人。つまり六×十六=九十六種類の「外道」があり、その中で一人だけ仏教の「因果因縁」の道理に似たことを教えていたので、九十六から一を引いて「九十五種の外道」と言われました。
涅槃経には「一切外学の九十五種はみな悪道におもむく」と記されています。「悪道」とは苦しい世界のことです。「因果因縁」の道理に反した教えを信じていると、苦しい世界に陥ることを諭しています。
「因果因縁」の道理に反した教え、つなり「外道」は「異学(いがく)」「異見(いけん)」「外教(げきよう)」「外法(げほう)」などとも言われる一方、仏教は自らを「内道(ないどう)」「内教」「内法」などと称しました。
やがて「外道」という言葉が日常的に使われるようになると、他者を非難する意味を含むようになり、卑劣で卑怯な人、邪悪な人、ずるい人、道徳から外れたことを行う人等々を罵るために使うようになりました。「邪道」と同じような意味とも言えます。
さらには、自分に敵対する人を「外道」と言うようになりましたが、ここまで来ると本来の意味からはずいぶんズレています。
仏教にしては激しい言葉です。日常用語の使い方がずいぶん汚い罵りの意味をもってしまったので、なおさら激しく聞こえます。
釣っておいて、しかも場合によっては食させていただく命である魚を「外道」と呼ぶのはいささか人間の傲慢ですね。魚さんに合掌。ではまた来月。