【第248回】不承不承(ふしょうぶしょう)

皆さん、こんにちは。立春は過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

冬になると、朝起きても布団から出たくないですよね。学校や仕事のために不承不承起きざるをえません。と言って使った「不承不承(ふしょうぶしょう)」も仏教用語です。もともとは「請」という漢字を用いて「不請不請」と書きました。「不請」には「望んでいない」という意味があります

仏教には「不請の友」という言葉が登場します。「大無量寿経」に「諸々の庶類(しょるい)のために不請の友となる」と記されています。「さまざまな人々のために進んで友となる」という意味です。

仏や菩薩が衆生(しゅじょう=人々)や「生きとし生けるもの」を救うために、自ら働きかけることを「友となる」と喩えている表現です。「人々は求めていなくても、人々の心を察し、仏や菩薩が自ら友となって救ってくださる」という有難い話です。つまり、仏や菩薩とはそのような存在であることを説いています。

このように「不請」とは、「嫌々」ということではなく「仏や菩薩が衆生に対して進んではたらきかける」ことを意味します。私たちは「知らないうちに仏や菩薩に救われている」「仏や菩薩はいつも寄り添ってくれている」ということです。

仏や菩薩でなくても陰で支えてくれている人はいます。両親や友人が好例です。「自分の知らないところで働きかけてくれている「不請」の人々です。

こうした本来の意味が理解されていた昔は「不請の友」と揮毫する人もいました。例えば、昔の学校では、卒業記念に生徒に一筆書く際に「不請の友」と記し、横に自分の名前を添える先生が結構いたそうです。先生の生徒を思う気持ちの表れであり、生徒にとっては卒業後も心の支えになったことでしょうね。

ところが「頼まれていなくてもやる」という含意が「本意ではないがやる」「嫌々ながらやる」というニュアンスに変化し、やがて「承知していない」という意味を込めて「不承不承」という漢字に転じました。

このコラムで何度もお伝えしているように、仏教用語から転じた日常用語の多くは本来とは逆の意味で使われています。それは、人間の心の身勝手、我欲のなせる業(わざ)です。「不承不承」に至っては、漢字まで変わってしまいました。

「欲や願いを実現することが人生だ」と考えれば、思い通りにならない現実は「不承不承」。いつも誰かに支えられているという感謝の気持ちを持てば人生は「不請不請」です。自分も「不請不請」家族や友人を支えることこそ、仏教の諭す生き方です。

自分にとって「祥しくない」という意味で「不祥不祥」とも書きますが、これも本来の意味と違いますね。「不承不承」ではなく、皆が「不請不請」生きていけば、本当に素晴らしい世の中になります。そう願って、ではまた来月。