皆さん、こんにちは。九月になりました。本格的な秋も間近。朝晩は肌寒い日も増えてきます。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
今年の大リーグも大谷選手とダルビッシュ選手が大活躍。どちらも大好きな選手ですが、活躍できなかった試合後のインタビューはちょっとつっけんどんな感じになります。まあ、仕方ないですね。この「つっけんどん」も実は仏教用語です。
漢字では「突慳貪」と書きます。「慳貪」は、仏教における「慳(物惜しみをすること)」と「貪(貪欲なこと)」を組み合わせた熟語ですが、日常会話の中での「突慳貪」は「無愛想なこと」「無慈悲なこと」「無情けなこと」等々の印象を表します。
「慳」はサンスクリット語で「マートサリヤ」。煩悩のひとつで、物惜しむこと、自分の利益だけを追求し続けること、財宝に執着して人に施す心の余裕のない状態を指します。
「貪」はサンスクリット語で「ラーガ」。やはり煩悩のひとつで、「むさぼること」「心を満たす対象を欲求し続けること」を意味します。。
ちなみに「貪(とん)=むさぼり」「瞋(じん)=怒り」「癡(ち)=愚か」は仏教の三毒です。欲望そのものが悪いのではなく、三毒が理性を失わせ、時に怒りにつながります。
その昔、竹下登首相が「怒りは敵だ」と言っていたそうです。「怒り」の感情を露わにすることは、結局、自分も周囲も気分を悪くするだけ、敵を作るだけ。したがって、「怒り」は自分を害する「敵」と見做して制御することの大切さを諭した名言です。
「突慳貪」は仏教的には「周囲が驚くような唐突さで自分の欲するままに貪ること」。要するに周囲への思いやりに欠ける態度ですね。。
仏教用語における「突慳貪」の反対語は「不慳貪」。物惜しみせず、広い心で他人を思いやる姿勢を表します。文字面とは印象が違いますね。
「不慳貪」は「施しの心」で満たされていることを指し、その状態を「布施」とも表現します。そうです、お坊さんに渡す「おふせ」つまり「布施」です。
なぜ「布を施す」と書くかと言えば、その昔、人々は物惜しみすることなく僧侶の袈裟にするために、布を贈ったからです。
「突慳貪」のことを書いていたら「ぶっきらぼう」という言葉が頭を過りました。これも仏教用語のような語感ですが、残念ながら違います。
「ぶっきらぼう」は、水飴を煮つめて回転させながら、引き伸ばして切った白い棒状の飴のことを指す「打っ切り棒(ぶっきりぼう)」が転じた語です。飴がブチっと切られた姿、味や形に面白みがないことから、「素っ気ない」様子を表すようになったとされます。
ブチっと切った木の切れ端は、丁寧に切ったり、加工された木材に比べて、素っ気なく、愛想なく見えることから「ぶっきらぼう」という表現が生まれたとする説もあります。
ちょっと脱線しました。そんなに「突慳貪」「ぶっきらぼう」にしないでください(笑)。ではまた来月。
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