皆さん、こんにちは。新緑の季節ですが、まもなく梅雨も到来します。腰痛などに気をつけてご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
コロナも3年目に入りました。年初からはロシアによるウクライナ侵攻もあり、世界にとっては一大事です。と言って使った「一大事」。これも実は仏教用語です。
仏教用語としての「一大事」はまさしく「ただ一つの重大な事柄」です」。お経にも登場します。法華経では「衆生(人々)を導いて仏の悟りの道に入らせること」が「一大事」とされ、そのために仏がこの世界に出現するとされています。
つまり「仏様の大仕事」というのが「一大事」の本来の意味です。仏様がこの世に現れなければならなかった根本の事情。人々を救うこと、人々を悟りに導くこと、仏様がこの世に出現した究極の目的、それが「一大事」です。
仏教の「一大事」は最も大事な目的のことです。仏様にとって人々を救う以上の目的はなく、それを超える大事はなく、最も重要な目的が「一大事」なのです。
やがて「大事」という言葉は日常的に使われるようになり、命に関わることも「大事」と称されました。軍記物語などには「大事の手」という表現が登場しますが、これは「命に関わる手傷」という意味です。
時代劇の定番の台詞に「御家(おいえ)の一大事」というものもあります。これは武家の価値観に沿った「大事」です。何よりも大切なことを「大事」と呼ぶことは上述のとおりですので、単なる家臣の失態や事故などは「一大事」ではありません。主家が存続するか否か、これが武家における「一大事」です。
やがて日常的に「大事な品物」「大事な用件」「大事な人」等々、「大事」を頻繁に使うようになります。そして、比較的重い事柄を指して「一大事」という表現も使われるようになりますが、上述のとおり、本来の「一大事」は「人々を覚りに導くこと」です。
徒然草五十九段に「大事を思ひ立たん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり」と記されています。
現代語訳すれば「大事なことをやろうと考える人は、どうしても心離れず気にかかって仕方がないということがあっても、それをやり遂げてからにしようなどとは考えず、全部打ち捨てて、すぐに行動を起こすべきである」となります。
徒然草に従えば「大事」なこととは「全てのことをかなぐり捨ててでも優先すること」になります。そういう基準で「大事」か否かを考えると、日頃「大事」と思って気にかかっていることも、意外に気にならなくなります。悩みも悩みでなくなります。
「断捨離」する際の基準にも役に立つかもしれませんね。「あれも大事」「これも大事」と思うと何も捨てられませんが、「大事」の意味を理解すれば、「あれもいらない」「これもいらない」と思い至り、気持ちが楽になるかもしれません。
さて、あなたにとっての「一大事」は何でしょうか。ではまた来月。
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