あけましておめでとうございます。耕平さんかわら版、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
かわら版で日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介し始めて丸五年。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
一月も後半です。お正月も終わり、新年会も一段落。そろそろ今年もエンジン全開。「どっこいしょ」と重い腰を上げ、さて頑張りましょう。そんな時期になりましたが、この「どっこいしょ」も仏教に由来する言葉です。
仏教では、人間の目、鼻、耳、舌、身、意(心)の六つを「六根(ろっこん)」と表現します。美しい・汚い、香しい・臭い、心地よい・うるさい、美味しい・まずい、気持ちいい・痛い等々、これらの感情や感覚は全て目・鼻・耳・舌・身から入ってくる情報を、自分の意、すなわち好き嫌いで判断していることから生じます。つまり六根に起因するのです。
納豆が好きな日本人は多いと思います。それは、目、鼻から入ってくる納豆のネバネバした姿にも臭いにも、日本人が慣れているからです。食べれば舌が美味しいと感じます。
外国人の多くは、見た目、臭い、味、いずれも「こんなもの食べられない」という先入観に囚われます。それは、意つまり心が「こんなもの食べられない」という情報を発信しているからです。
争いごとのもとは、自分の主張が正しい、相手が間違っているという自分の価値観が発端です。もちろん、相手も同様に考えていれば、喧嘩勃発は必定です。
そこで、この「六根」を真っ新(さら)、真っ白な状態にすることで、自分の思い込みや価値観の呪縛から解き放たれることを仏教では非常に大切にします。というより、仏教の教えの真髄と言ってもよいでしょう。
日本の仏教は古来の修験道と混交した山岳仏教という特徴を有しています。そのため、奥深い山で修験道や仏教の修行をする風習が定着しました。とりわけ修験道の修行では「ざ~んげ、ざんげ、ろっこんしょうじょう」と唱えながら山を巡ります。漢字で書けば、「懺悔、懺悔、六根清浄」です。
つまり、自分の「六根」を真っ新、真っ白にすることが「清浄」です。そうすることで、悩みや迷い、争いごとから解放されることを期待しています。「清浄」とは煩悩や私欲のない清らかな状態の事です。
この「ろっこんしょうじょう」が転じて「どっこいしょ」になったと考えられています。
困難や悩みに直面している時には、気を取り直して「そろそろ気分一新して頑張るか」という思いで「どっこいしょ」と呟いてください。それは「六根清浄」して自分の気持ちを真っ新、真っ白にする魔法の言葉です。
面倒くさいとか、億劫な気持ちを表現するために「どっこいしょ」と唱えては、「どっこいしょ」のご利益がなくなります(笑)。明るく、元気に「どっこいしょ」です。
どっこいしょ」と「六根清浄」すれば、こだわりが消え、悩みからも、苦しみからも解放されます。さて今年も「どっこいしょ」です。ではまた来月。
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