【第229号】馬鹿~茗荷

皆さん、こんにちは。夏本番ですね。今年の暑さはどのぐらいになるのか、またどのぐらい続くのか。よくわかりませんが、とにかくご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

地球温暖化は深刻化しており、今年の夏も猛暑を通り越して、馬鹿みたいに暑い夏になりそうです。この「馬鹿」も仏教用語です。

サンスクリット語(梵語)の「モーハ」が語源。「モーハ」は愚かさを表す言葉だったようですが、訳経僧が「慕何」「莫迦」と漢訳。やがて「馬鹿」に変化しました。

時代を経る中で、いくつかの逸話と結びついて「馬鹿」という漢字になったようです。有力説のひとつは仏教の逸話と結びついたものです。

お釈迦様にパンタカという弟子がいました。パンダカは頭が悪く、お釈迦様の教えを理解できないどころか、自分の名前すら覚えられません。

やはりお釈迦様の弟子だった優秀な兄は、弟のパンダカに修行を諦めて故郷に帰り、親孝行をして暮らすように勧めました。パンダカは修行を続けたいと悲しんでいると、事情を知ったお釈迦がパンダカに言いました。

「おまえに箒(ほうき)を渡すので、掃除だけに専念しなさい。それがおまえの修行となる。他の修行者と同じように学ぶ必要はない」と言いました。

パンタカは「それなら自分にもできる」と喜び、真面目に黙々と毎日掃除を続けました。他の修行者が坐禅や瞑想をしている時も、ひたすら一心に掃除に集中。やがてパンタカの心は澄み清められ、掃除を通して覚りを開きました。そして、十六羅漢と称されるお釈迦様の大切な弟子のひとりとなりました。これが「パンダカの覚り」です。

仏教は人間を「良い、悪い」「賢い、愚か」などで区別はしません。人間それぞれに個性があり、それぞれみんな違っています。お釈迦様は「違う人間は違うままに、それぞれに応じた仏性の開き方をすればよい」と説きます。利口であろうが、愚鈍であろうが、重要なのは無心に一心に精進できるかどうかが問われています。

お釈迦様はパンタカに言いました。「自分の愚かさを知る者は、愚か者ではない。本当の愚か者は、自分は優れていると思い込んでいる者である」。

パンタカが亡くなり、その墓から草が生えました。その草を食べると物覚えが悪くなると揶揄する者もおり、草についた名前は「茗荷(みょうが、ばか)」。自分の名前も覚えられないパンダカが名札をつけていたことから「名を荷ぐ」ので「茗荷」と言われました。

日常会話では「バカ」は人を蔑む言葉ですが、仏教的には無心に一心に、しかも私心なく精進することかもしれません。「バカのように夢中になった」「バカ正直」というように、肯定的な意味を含んでいる場合もありますよね。

「パンダカ」が「茗荷」にはなりましたが、まだ「馬鹿」には変化していません。それには、もうひとつの逸話が影響しているかもしれません。それは来月お伝えします。

乞ご期待。