皆さん、こんにちは。いよいよ春本番。もうすぐ桜も満開ですが、朝晩は寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。
かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。
コロナ禍が一刻も早く収束することを祈ります。まだまだコロナ対策が必要ですが、国の財政も火の車です。この「火の車」も仏教用語です。
仏教用語的には「かしゃ」と読みます。日常会話の「火の車」は、お金の工面が大変なことの比喩として用いられますが、仏教用語としては地獄の話と関係しています。
お釈迦様に背いた弟子として知られているのが提婆達多(だいばだった)。仏法の教えに反して多くの罪を犯したうえ、お釈迦様を襲おうとしました。罪深い提婆達多は生きながら地獄に堕ち、その時「火車」が迎えにきました。
地獄に堕ちた提婆達多は「火車の責」に遭うのですが、これがまた凄い。「火車」に乗せられて焼かれ、生き返らせられては再び焼かれることを繰り返す地獄の刑罰です。
芥川龍之介の名作「地獄変」にも「火車の責」に絡む話が出てきます。ご興味があれば、実際にお読みください。要するに、自分の利益と快楽のための行為が過ぎると「地獄に墜ちる」というお話です。
地獄は嫌ですよね。やっぱり地獄より天国に行きたいですが、仏教には天国はありません。黒澤明監督の名作「天国と地獄」という映画もあるので、「天国と地獄」は対語と考えがちですが、仏教では「地獄」の反対は「浄土」「極楽」です。
「天国」は神様が住む場所を指しますが、仏教の「浄土」は場所の名であるばかりではなく、人間の「心の中」「覚(悟)り」そのものを表す言葉です。「欲」や「執着」を律して「嫉妬」や「煩悩」から解放された心こそが「浄土」。そういう人ばかりになればこの世はたしかに「浄土」です。
「極楽浄土」と言うように「極楽」と「浄土」はセット。「極楽」も同じことを指します。「欲」や「執着」から逃れることは、生身の人間にとって簡単なことではありません。だから「極楽」や「浄土」は「彼岸(ひがん)」すなわち「人間の住む此岸(しがん)の彼方(かなた)の岸」と言われる由縁です。
三月は「お彼岸」のうえ、二十一日はお大師様の年命日の「ご祥当」。四月になれば八日はお釈迦様の誕生日の「花祭り」。
仏教にご縁の深いこの時期は、「火の車」「地獄」「極楽」「浄土」「彼岸」「此岸」などの意味をよく考え、「欲」と「執着」を律することの大切さを噛み締めたいですね。
空高く優雅に舞うように飛ぶとんぼと「極楽」を合体させて「極楽とんぼ」。日常会話的には何の心配もなく、呑気(のんき)に暮らしている人のことを指しますが、仏教用語的には「欲」や「執着」から解放されている人を表します。人間、なかなか「極楽とんぼ」にはなれません。
それではまた来月。ごきげんよう。
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