皆さん、こんにちは。立秋は過ぎましたが、まだまだ猛暑、酷暑の夏真っ盛り。くれぐれもご自愛ください。

日常会話の中に登場する仏教用語をお伝えしているかわら版。少しでも読者の皆さんのお役に立てば幸いです。

今年のお盆はいかがでしたか。久しぶりに家族が集まり、遠くで暮らす子どもやかわいい孫の顔を見て、楽しく過ごされた方も多いと思います。

家族は本当に愛(いと)おしいですね。とくに、孫となるとついつい溺愛してしまいますね。子どももかわいいですが、愛する孫はとにかくかわいい。

この「愛」も実は仏教用語です。

「愛」とは難しいものです。お釈迦さまは「愛」は「苦」であると説き、覚りへの妨げになるとしました。

わが子が誕生した時に、お釈迦さまは「ラーフラ」と名づけました。「ラーフラ」とはサンスクリット語で「妨げ」という意味。そのままですね。

シャークヤ(釈迦)国の王子であったお釈迦さまは、妻も子も家も捨て、出家の道に身を投じました。全ての「愛」を切り捨てたののです。

私たち凡人には理解し難いことですが、「愛」は「欲」や「執着」に関係しているからではないでしょうか。

「愛」が行き過ぎたり、「愛」を制することができない場合には、区別や差別の気持ちにもつながります。また、過ちを犯す原因になる場合もあります。

わが子や孫を愛する心には、わが子とよその子、自分の孫とよその孫を比較したり、区別する気持ちと表裏一体です。何かを愛する心の裏には、別の何かは愛さないという心が潜んでいます。

愛社精神が行き過ぎると不祥事につながり、愛国心は時に争いのもととなり、子どもや孫の溺愛は必ずしも子どもや孫に良い影響を与えない場合があります。

「愛」は自分の「欲」や「執着」と一体です。そもそも仏教でいう「愛」はサンスクリット語の「トリシュナー」の訳。「渇愛(かつあい)」をいう意味です。

「愛」はもちろん悪い言葉ではありません。しかし、「欲」や「執着」に囚われ、溺愛し、奪い取ってでも自分のものとしようとする渇愛になると、決して良いこととは言えないでしょう。

飢えた獣の前にわが身を投げ出した逸話を伝える「本生譚(ほんじょうたん)」。自分の欲望充足のためではなく、生きとし生けるものに広く等しく注がれる無差別の愛、それは「仏の慈悲」。お釈迦さまが求めた「愛」はそういう「愛」だと思います。

かわら版の「愛」読者が増えることを渇愛せず、慈悲を目指して頑張ります。それでは皆さん、また来月お会いしましょう。