皆さん、明けましておめでとうございます。かわら版、今年もご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

日常会話の中に浸透している仏教用語をお伝えしているかわら版。仏教用語がたくさん定着しているのには驚きます。

お正月に今年の目標などを書き初めしたお子さんたちも多いのではないでしょうか。それとも、今や書き初めなどはしないのでしょうか。僕の小学生時代は、冬休みの宿題でしたね。

高校球児であれば「今年は甲子園に出るのが悲願」 とか、ピアノやバレーに取り組んでいるお嬢さんであれば「今年はコンクールで優勝するのが悲願」とか、いろいろな「悲願」がありますよね。

さて、この「悲願」 。実はこれも仏教用語です。

「悲願」が達成されれば、勝った本人は気持ちが良いですが、勝つ人がいれば、敗れる人もいますよね。「悲願」の陰では、必ず敗者がいることを忘れてはいけません。

私たちが日常使う「悲願」は、自分の願望、欲望を達成したいという「願い」です。「悲壮な覚悟で達成したい願い」が「悲願」。言わば「欲」の塊(かたまり)と言ってもよいかもしれません。もちろん、練習や努力の成果ですから、悪いことではありません。

これまでの投稿でお気づきの方も多いかもしれませんが、日常用語として浸透している仏教用語は、往々にして本来とは逆の意味で使われています。

「悲願」も同じです。本来の「悲願」は仏さまや菩薩が「衆生(人々)の苦しみを救うために誓われた願い」のことです。では、人々の苦しみはなぜ生じるのでしょうか。

「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれがしたい」「これがしたい」という「欲」を抱くことは人間の本質。そして、その「欲」が達成されないので苦しみます。

仏さまや菩薩にとって、そういう人間の「欲」や「苦しみ」を全てわが身に引き受けて、「欲」が達成されないことで「悲しみ」「苦しむ」人間の気持ちに「同悲」「同苦」するのが「悲願」なのです。「悲願」は「阿弥陀仏の本願」とも言います。

なるほど、人間の「悲願」は「欲」の塊、本来の「悲願」はその「欲」から解放されることを願うこと。まったく正反対でした。

「欲」から解放されて、自己中心的な生き方を正すことを諭す言葉が「悲願」。そういう意味で使うとなれば、「今年こそはこうなりたい」「こうしたい」などという「悲願」は忘れなさいということが「悲願」です。そういう心穏やかな気持ちになると、逆に人間の「悲願」は達成されるものです。