皆さん、明けましておめでとうございます。平成二十九年、丁酉(ひのととり)の年が始まりました。今年もかわら版をご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。
一昨年、昨年と般若心経の意味を学んできたかわら版。今年は日常会話の中に浸透している仏教用語を知ることで、仏教の教えを深く考えてみたいと思います。
いろいろ不満が出てくるのは、欲のなせる業(わざ)。何かと不安になるのも、欲のなせる業。「あれが欲しい」「これが欲しい」と思う心が「あれがない」「これがない」「あれを失うかもしれない」「これも失うかもしれない」という不満や不安の気持ちを生み出します。
ご心経もそう諭してくれていました。
そうですねぇ。何ごとも我慢、我慢。欲を抑えて、自分の気持ちを律する。そのためには我慢が一番。
実はこの「我慢」。それそのものが仏教用語です。
我慢の「我」は「自我」の「我」。我慢の「慢」は「慢心」の「慢」。つまり「自我の慢心」を略して「我慢」なのです。
我慢するというのは、自分の気持ちを律している自分自身の姿、我慢している自分自身が「善」であるというような潜在意識を伴っています。
しかし、我慢そのものが「自我の慢心」から生まれているのですから、我慢の原因そのものも自分の欲から生み出されています。
嫌いな人、嫌なことに耐え、我慢している自分は可哀そう。そう考えがちですが、実は「嫌い」とか「嫌」という気持ちそのものが「自我の慢心」から生まれています。
そのことに気づくと「嫌い」「嫌」という気持ちそのものが和らぎ、そもそも我慢する必要がなくなります。何しろ「自我の慢心」がなくなるのですから。
「嫌い」なもの、「嫌」なものを無理矢理変えようとするのは「傲慢」。それを自分の気持ちを抑えて耐えるのが「我慢」。
「傲慢」と「我慢」は親戚なのかもしれませんね。
何かにこだわることなく、広く穏やかな心で人や出来事や社会を見つめ、病気や苦労も含めた全ての現実と向き合い、ありのまま受け入れること。
そういう心の持ちようになると「傲慢」も「我慢」も縁遠くなります。
「傲慢」は争いを招きます。「我慢」はストレスを溜め、それに耐えられなくなると、病んだり、争いごとに発展します。
人間の執着や愚かさを戒め、少しでも平穏で争いごとの少ない社会にする。そのためには、一人ひとりが「傲慢」や「我慢」の本質に気づくことが肝要です。
難しいですねぇ。でも心に留めておきましょう。「自分だけ我慢している」などと考えること自体が「自我の慢心」。言わば「傲慢」というものです。
「かわら版」、今年もよろしくお願い致します。合掌。