【第280号】飯田街道と岡崎街道

十月です。だいぶ涼しくなりました。季節の変わり目ですので、くれぐれもご自愛ください。

二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇
街道についてお伝えしています。今月は飯田街道と岡崎街道です。

飯田街道

飯田街道と呼ばれる道は複数存在します。昔の道の名前は向かう先の地名を冠するものが多く、飯田に向かう道はみな飯田街道です。

名古屋から東に行く道は、飯田街道のほか、駿河街道、平針街道、岡崎街道など複数あり、飯田街道と同じ道を指す場合があったほ
か、時代と場所による変遷や、人による使い方の違いもありました。

名古屋から信州に向かう道は木曽川と天竜川に挟まれた木曽山脈の西を通る木曽路(中山道)と東を通る伊那路に大別できます。

西の道は名古屋城下から下街道(善光寺街道)を通って木曽路に向かいます。距離が短く、宿場も整備されていたので、多くの旅人
が利用しました。

一方、東の道は塩を筆頭とする海産物や農産物の交易道です。伊勢湾や三河湾の塩をはじめ、多くの物資が足助経由の伊那路で運ば
れました。

名古屋城下における飯田街道の起点は、本町通と伝馬町筋が交差する札の辻です。そこから東に向かって名古屋五口のひとつ三河口
を出て、吹上、川名に向かいます。

川名には川原神社があります。延喜式に載る古社で、戦国時代には神社東に川名北城と南城がありました。街道は山崎川を渡り、景
勝地の壇渓を通ります。

八事手前には地蔵堂があり、塩付街道への近道である石仏街道との分岐点です。地蔵の横に「左八事」「右東海道/新四国道」と彫られています。塩付街道は星崎で作られた城を名古屋城下に運ぶ道です。

さらに東に進むと一六八八年創建、尾張高野と称された興正寺です。境内のある西山と山林の東山に分かれ、東山の頂上呑海峰には
二代藩主光友が作った大日如来が鎮座しています。

本堂赤提灯の後ろには七代藩主宗春が書いた「八事山」の額が懸かっています。宗春は蟄居を解かれた後に興正寺をよく訪れたそう
です。

八事を過ぎると塩釜神社です。この辺りは音聞山と呼ばれ、松巨島や伊勢湾を見渡せる絶景地、歌枕として知られていました。街道は坂を下って植田川に出ます。そこから天白川を渡り、平針宿に至ります。

飯田街道は、平針宿以東で岡崎街道、挙母街道、三州街道、伊奈街道と分岐します。

平針から岡崎に向かう道も岡崎街道ですが、拳母街道、伊那街道経由で岡崎にむけて南下する経路も岡崎街道です。

飯田街道の中心である伊那街道は矢作川沿いに東進して足助に向かいますが、途中、赤池で挙母街道と分かれます。

さらに東に進むと北東の足助、南の岡崎への分岐点です。北東に向かうと「枝下の渡し」で矢作川を渡り、足助から三州街道で信州飯田に至ります。三州街道は三河と信州を結ぶ道を指します。

岡崎街道と平針宿

飯田街道の途中から岡崎に向かう道は、徳川家康が名古屋開府直後の一六一二年に戦略的に造った岡崎街道です。

名古屋城は西から来る豊臣方との戦いに備え、名古屋台地の西北角に造られました。城郭西北側の庄内川、木曽川を天然堀として活用しています。

軍の駐留、兵站路、撤退路も考えました。街道沿いに大規模な寺町を造って駐留拠点とし、兵站路、撤退路でもある北の上街道(木曽街道)、北東の下街道(善光寺街道)を整備しました。南は東海道です。

課題は南東方向、岡崎を中心とする三河とつながる経路です。一六一二年春、家康は自ら名古屋から岡崎の最短経路を構想すべく、探索に出ました。名古屋城築城場所の選定時と同じです。

家康は城下から八事を抜け、平針に通じる道筋が北・東・南三方向への分岐の利便性を考えて最適と判断したようです。

家康は平針村の長を呼び、村全体を新たに作る街道の位置に移動させ、伝馬役を命じました。その代りに家康が村の菩提寺として造営したのが秀伝寺です。平針宿には本陣、脇本陣、問屋場も建てられました。

こうして整備された平針経由の道が、尾張藩二番目の藩道、岡崎街道です。一番目は上街道(木曽街道)です。

岡崎街道の名古屋から平針までの道は飯田街道と共有しています。城下の出発点が駿河町であったため、庶民は駿河街道とか駿河町街道と呼びまた。一方、三河側では新街道とか、熱田へ通じるので宮道と呼びました。

姫街道という異名もあります。軍事目的の道であることを隠すために、家康自らが命名したと伝わります。

尾張四観音道

来月は尾張四観音を結ぶ尾張四観音道についてお伝えします。乞ご期待。