【第279号】水野街道と定光寺

九月になりましたが残暑が続いています。くれぐれもご自愛ください。

二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えします。今月は水野街道と定光寺です。

水野街道

下街道の南東には水野街道があります。瀬戸街道、品野街道とも言われます。

名古屋城下の赤塚町大木戸から大曽根口を出て、まもなく下街道と分岐して北に進み、矢田、小幡、大森、新居、水野を通って瀬戸に至り、その先の三州街道、信州街道へと続いていました。途中に定光寺もあります。

下街道において土岐川が増水した時の迂回路でもあり、新居村から分かれて瀬戸や品野を経て信州飯田に向かう道です。

江戸時代の信州で、馬の背に荷物を載せて運ぶことを「中馬」と言うようになります。中馬を活用して名古屋城下町などの沿岸部と信州内陸を結ぶ道は中馬街道とも呼ばれました。水野街道も中馬街道のひとつです。

尾張徇行記には信州飯田街道の一部と記されています。また、大森付近から東谷山麓を経由して水野村の御狩場や藩祖義直の墓所がある定光寺に向かいます。

瀬戸で焼かれた陶器を名古屋城下に運ぶ一方、尾張北東部や信州で必要な物資を名古屋城下から運ぶ交易路です。中でも名古屋城下町の南、星崎で作った塩を信州に運ぶ街道として重要な役割を果たしました。

定光寺と義直公

尾張藩は地政学的に重要な位置にあり、文武に優れた藩祖義直公は尾張藩の地理を熟知するべく、鷹狩をかねて西部の木曽川沿いや東部の丘陵地によく出かけました。家康と同じく鷹狩の道中に領内の視察を兼ねたのです。

とりわけ水野村付近の山野には度々出かけ、その風光を好んだと伝わります。その際、よく立ち寄ったのが桜や紅葉の名所として知
られる一三六六年開創の定光寺です。やがて定光寺に土地を寄進し、自らの墓所とするよう遺命しました。

一六五〇年、義直が没すると、定光寺の寺域に隣接する山林に三年をかけて源敬公廟が造営され、尾張徳川家の庇護を受けます。源
敬公(げんけいこう)は義直の諡号(しごう)です。 本堂の奥に義直の墓所があります。墓の石垣のどこかに数百万両の軍用金が埋蔵してあるとの伝説があります。

源敬公廟ができた定光寺は歴代藩主が度々訪れる場所となり、定光寺に向かう水野街道は殿様街道、御成道とも呼ばれるようになり
ました。

義直の正室は紀州浅野家の春姫です。義直と春姫の間には世継ができませんでした。ある時、鷹狩に水野まで来た義直は、丈夫そう
な農家の娘を見染めました。

しばらくして城仕えとなったその娘に男子が生まれ、義直は家臣に自分の子であることを明かします。二年後、正式な跡取りとなり、やがて二代藩主光友になります。光友は将軍家光の一人娘を娶り、御三家筆頭の座を揺るぎないものとします。

水野街道は二代藩主生母歓喜院の故郷であり、菩提寺は大森寺です。

守山村から小幡村へと続く水野街道沿いは御付家老成瀬氏の領地が目立ちます。守山二十軒家も成瀬氏が作った集落であり、水野街道は名古屋城から木曽への藩主の脱出路として整備されていたと伝わります。

森山(守山)崩れ

街道沿いの守山台地の先端に長母寺があります。一二二一年の承久の乱に登場する星崎城主山田重忠が一一七九年に建立したと伝わる古刹です。寺の裏は矢田川で、対岸には守山城址の森が見えます。松平清康(家康祖父)が亡くなった「森山崩れ(守山崩れ)」の舞台です。

松平八代の七代目清康は積極的に領地を拡大しました。一五三五年、尾張の織田氏を攻めるために守山城に布陣します。ある夜、家臣の阿部定吉が織田氏に内通しているとの噂が立つ中、清康の本陣で馬が暴れる騒ぎがありました。騒ぎを聞いた定吉の息子正豊は、父定吉が清康に誅殺されたためと思い込み、清康を背後から襲って殺害します。正豊はその場で成敗されましたが、主君を失った松平軍は岡崎に帰陣します。この出来事は「森山崩れ」と言われます。

長男広忠はまだ幼く、松平氏は今川氏の助力を得ることとなり、以後今川配下となります。後に広忠の子家康は今川と織田の人質と
して渡り歩くことになったのです。

十四年後の一五四九年、広忠も家臣の岩松八弥に殺害されます。清康を討った阿部正豊、広忠を討った岩松八弥、そのいずれも成敗
したのは家臣の植村氏明です。氏明自身は、一五五二年、沓掛における織田勢との戦いで討死しました。

近くには清康の菩提を弔う宝勝寺があり、墓石は疎林の中の池畔にあります。

飯田街道と岡崎街道

来月は名古屋城下から西に向かう飯田街道と岡崎街道についてお伝えします。乞ご期待。