三月です。ご祥当です。いよいよ春本番ですね。でも寒い日もあります。ご留意ください。
二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えします。今月は美濃街道・岐阜街道・岩倉街道です。
美濃街道
名古屋城から北西から北に向かう道は、西から美濃街道、岐阜街道、岩倉街道の3本です。順番に訪ねてみましょう。
美濃街道は東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ街道です。
約十四里の行程で、宮、清洲、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣、垂井の八宿があります。起までが尾張国、墨俣以降は美濃国です。
美濃街道を使えば、七里の渡しを避けることができ、かつ東海道の鈴鹿峠や中山道の急峻な山道を通らなくてよいことから、将軍上洛や大名の参勤交代、朝鮮通信使や琉球使節、茶壺道中などに利用されました。茶壷道中は、都の宇治茶を徳川将軍家に献上するために茶壷を運ぶ行列のことです。
美濃街道は古代において既に原形が存在しました。萱津から北上し、尾張国の国府稲沢を通り、東山道の不破の関に出て美濃国の国府不破に至る道が古代美濃路です。
美濃街道は宮宿から本町通を北上し、やがて堀川沿いの道に入り、名古屋城西北の浅間町の角から西進し、枇杷島橋で庄内川を渡って萱津から清洲に向かいました。
清洲宿・稲葉宿・萩原宿・起宿
清洲越しで町が寂れた清洲でしたが、美濃街道の宿となって活気を取り戻します。
宿に入ると鍵型の曲がり角があり、その辻に清凉寺があります。寺の梵鐘は時鐘として親しまれました。
清洲から北上して五条川を渡ると北西に向きを変え、稲葉宿を目指します。この辺りも社寺城郭の多い地域です。
街道沿いの長光寺は、若き日の信長が境内で遊んでいたと伝わる古刹であり、信長愛飲の臥松水の井戸があります。門前の四ッ家追分の道標は、美濃街道と岐阜街道の分岐点を示します。
日光川の東に位置する稲葉宿は、一八四三年の記録には宿場町の長さ八町二十一間(約一キロメートル)、本陣一軒、脇本陣一軒、問屋場三軒、旅籠屋八軒、戸数三三六軒、人口一五七二人と記されています。
問屋場(とんやば、といやば)は、人馬継立、助郷賦課などの宿駅業務を担います。駅亭、伝馬所、馬締とも言いました。
稲葉宿からさらに北西に進むと萩原宿です。上述の記録では、萩原宿は本陣一軒、脇本陣一軒、問屋場二軒、旅籠一七軒、家屋二三六軒、人口一〇〇二人と記されています。
かつて本陣西にあった萩原城は秀吉の姉婿長尾吉房の居城です。吉房は豊臣秀次の父であり、秀次が失脚すると追放され萩原城は廃城となりました。江戸時代に尾張藩祖義直の御茶屋御殿が建てられました。
萩原宿から北西に進むと木曽川端の起宿に着きます。尾張国最後の宿場であり、木曽川を渡ると美濃国です。
起は小さな村でした。近隣の富田・東五城・西五城・小信中島の村々を加宿として、この起五ヶ村で伝馬役、人足役の宿役を負担しました。
起宿の戸数は二三〇軒、人口一〇三三人、本陣・脇本陣各一軒、問屋二軒、旅籠屋二二軒です。
起宿本陣は隣接する萩原宿や墨俣宿に比べて大規模であったため、紀州徳川家をはじめ、大大名が宿泊しました。
起宿には、上(定渡船場)、中(宮河戸)、下(船橋河戸)の三ヶ所の渡し場がありました。将軍上洛や朝鮮通信使の大行列が渡る際には、船橋河戸に船二七〇艘以上を用いて船橋が架けられたそうです。
岐阜街道と岩倉街道
美濃街道は稲葉宿で岐阜に至る岐阜街道と分岐していました。岐阜街道は美濃街道四ッ家追分から中山道加納宿までの連絡路です。
尾張藩は毎年長良川で獲れた鮎の御鮨を江戸幕府に献上していました。その際、岐阜街道を使って長良川から名古屋城下まで御鮨を運んだことから、岐阜街道は御鮨街道と呼ばれるようになりました。
清洲宿で美濃街道と分岐したのは八神街道です。矢合、祖父江を経て、木曽川を渡って美濃国八神に至ります。八神には、関ヶ原の戦い後に尾張藩に仕えた毛利家の八神城がありました。
岐阜街道の東には岩倉街道もありました。名古屋城下の枇杷島橋西詰が始点であり、清洲の四ッ家追分から美濃街道と分かれ、小田井・九之坪・石仏・小折を経由して、江南、扶桑、犬山に至ります。柳街道の別名もありました。
清洲越しの後、庄内川右岸の下小田井に設けられた青物市場に野菜を運ぶ輸送路として活用されました。庄内川に唯一架橋されていた枇杷島橋に近く、城下町の大量の需要に応じるために尾張北部から野菜が運ばれました。
岩倉城と生駒屋敷
来月は岩倉街道沿いの岩倉城と生駒屋敷についてお伝えします。乞ご期待。