【第272号】津島街道

立春は過ぎましたが、まだまだ寒い日が続きます。くれぐれもご留意ください。

二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えしています。今月は津島街道です。

津島街道(上街道)

佐屋街道の北に位置するのが津島街道です。名古屋城下と津島の間をほぼ西に一直線に結ぶ四里弱の行程です。一六二六年に東海道の脇往還として開設されました。

もともとは鎌倉街道の萱津宿から津島に行く道として発達し、津島神社や甚目寺観音への参詣道としても賑わいました。佐屋街道が下街道と呼ばれたのに対し、津島街道は上街道と言われました。

美濃街道の新川橋西詰で分岐し、法界門橋、甚目寺、木田、勝幡を経て、津島神社に至ります。津島の終着は神社の東側にある橋詰三叉路(はしづめさんさろ)です。

津島神社が天王川と佐屋川に挟まれた中州にあったため、三叉路と津島神社の間の天王川に天王橋という大きな橋が架かっていました。

津島街道の南には佐屋街道が通っています。佐屋街道の神守宿から津島神社に行く道も津島街道と呼ばれました。

津島神社

津島神社は鎌倉街道、美濃街道の萱津宿の西三里、佐屋街道の神守宿からは北西一里ほどの位置にあります。

津島から南西へ一里弱のところに佐屋があります。津島は湊としては佐屋より古く、平安末期には天王川と佐屋川を経て桑名に行く船の渡しが営まれていました。

「伊勢参り、津島参らにゃ片参り」と詠われた津島神社。その津島神社の数多い祭礼の中で最も盛大で有名なのが天王祭です。大阪天神祭、厳島管弦祭とともに日本三大川祭りとも言われ、五百年以上の歴史があります。壮大華麗なまきわら船やだんじり船を、若き日の織田信長も見物したと伝わります。

津島神社は建速須佐之男命を主祭神とし、大国主命を相殿に祀ります。創建は欽明天皇の頃に遡り、古くは津島牛頭天王社と呼ばれていました。八一〇年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、正暦年間(九九〇~九四年)には一条天皇より天王社の号を贈られました。

「東の津島、西の八坂(祇園社)」とも称され、京都八坂神社と並ぶ牛頭天王信仰の中心であり、津島の天王さんと言われて親しまれました。津島信仰という表現もあります。最盛期には約三千の末社を擁し、全国津々浦々から参詣者が訪れました。

朱塗の鳥居をくぐり、太鼓型の石橋を過ぎると、檜皮葺、入母屋造の大きな楼門(東門)があります。楼門は一五九一年に建立されました。

神社の東側を天王川が流れ、この楼門が正門の役割を担い、門前町も東側に広がっていました。

楼門の西には、檜皮葺、切妻造の拝殿、その奥には祭文殿と釣殿、さらに本殿があります。檜皮葺、三間社流造の本殿は棟札から一六〇五年造営であることがわかります。徳川家康の四男清洲城主松平忠吉の妻が、病弱な夫の健康を祈願して寄進しました。

これらの建物はほぼ左右対象に配置され、回廊で結ばれた尾張造と言われるこの地方独特の伽藍配置形式です。江戸時代の尾張名所図会にも現在とほぼ同じ伽藍が描かれています。

勝幡城と蓮華寺

津島の東、日光川と三宅川の合流地点は勝幡です。両川に挟まれた中州に津島を拠点とした織田弾正忠家が築いた勝幡城がありました。
勝幡城に陣取り、経済拠点である津島湊を支配した織田氏は、津島神社を崇敬し、社殿の造営などに尽力しました。織田氏の家紋である木瓜紋は津島神社の神紋と同じです。

後に豊臣秀吉も津島神社に社領を寄進し、社殿を修造するなど、津島神社を厚遇しました。江戸時代には尾張藩主が一二九三石の神領を認め、幕府公認の朱印地となりました。

蓮華寺は勝幡城の東一里ほどの場所にあります。弘仁年間(八一〇~二四年)に空海が開山したと伝わる古刹です。

寺の立つ場所は蜂須賀郷であり、蜂須賀小六はこの地の出身です。小六は秀吉に仕えて身を興し、子孫は阿波国徳島藩主となりました。

小六の菩提寺であった蓮華寺は蜂須賀家の帰依を受け、尾張徳川家からも寺領を寄進されました。

蜂須賀小六、家政親子の位牌が安置され、仁王門は家政の寄進です。寺の南西には、小六の旧宅や蜂須賀城があったと伝わります。

津島街道(上街道)と津島神社

来月は津島街道の北側・北東側に位置する美濃街道・岐阜街道・岩倉街道についてお伝えします。乞ご期待。