明けましておめでとうございます。本年もかわら版をよろしくお願いします。
二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えします。今月は佐屋街道です。
佐屋街道(下街道)
名古屋城下町は東西南北の脇街道とつながります。西の佐屋街道、津島街道、北の上街道(木曽街道)、下街道(善光寺街道)、東の飯田街道、南の常滑街道などです。
脇街道の道筋は周辺地域を結ぶ要路であり、中世や戦国時代に築かれた社寺や城郭が多数あります。
川柳に「八剣の宮を渡らず佐屋回り」と詠われています。八剣宮は熱田神宮の南にある社であり、つまり「七里の渡し」を指しています。東海道を行く旅人が海路を避けて佐屋街道を使うことを川柳にしています。
熱田から北に迂回して佐屋街道に向かいます。佐屋街道より西側に進路を妨げるような山や丘はないので、佐屋街道ができた頃の海岸線がかなり北寄りだったことを示しています。
「七里の渡し」の海路は悪天候で欠航することが多く、船酔いや足止めを嫌う旅人は陸路で佐屋宿に行き、そこから佐屋川を下って桑名を目指します。川下りの航路は揺れが少なく、旅人に人気がありました。
宮宿から佐屋宿までは陸路六里、佐屋宿から桑名宿までは水路三里の合計九里です。佐屋宿から、弥冨、長島、桑名までの川船の航路は「三里の渡し」と呼ばれました。
全体の距離は「七里の渡し」より二里長いうえ、船を使うのはわずか三里ですが元賃銭(船賃)は「七里の渡し」の倍以上です。それでも佐屋街道を使う旅人が多かったことは、この脇街道の安全さと快適さの証です。
万場の渡し
宮宿から辿ってみましょう。
一八四八年の諸国道中旅鏡の宮宿の項には「この渡は木曽川のはて也。水出れば上りかたく、汐させば心安し。されども雨天西風はげしければ船止る。佐屋え廻りてよし」と記されています。こうした紀行文の記述を参考にした旅人も多かったことでしょう。
岩塚宿から「万場の渡し」で対岸の万場宿に行き、神守宿を経て佐屋宿に至ります。神守宿から分岐して津島神社経由で佐屋宿に入る経路もありました。
各地に上街道、下街道という呼称があります。この地域でも北の津島街道を上街道、南の佐屋街道を下街道と呼びました。佐屋街道は道中の安全さが好まれ、女性が盛んに利用したことから姫街道との別名もあります。
関ヶ原の戦いの翌一六〇一年、東海道の整備が始まり、伝馬宿駅制が敷かれて佐屋街道の原形ができました。
一六一五年、大坂夏の陣で徳川家康が大坂に向かう際も佐屋街道を使いました。
江戸時代初期、佐屋街道の管理は尾張藩が担っていました。やがて佐屋街道の利用度と重要度が高まると、寛文年間(一六六一~七三年)に幕府道中奉行が管理する官道に指定されます。
佐屋川の川底上昇に伴い、一七七二年に佐屋船会所は川浚いをしました。しかし効果はあまりなく、やがて佐屋宿は渡船場としては機能しなくなります。一八〇八年、下流に仮会所が置かれ、佐屋宿廃止まで使われました。
渡船場は下流に移ったものの、佐屋宿の賑わいは変わらず、一八四三年の佐屋路宿村大概帳によると、本陣二軒、脇本陣二軒と記録されています。通常の宿場はそれぞれ一陣ずつであり、江戸時代後期の佐屋宿の大きさが伺えます。
蟹江城攻防戦
佐屋街道の南に蟹江城があります。
蟹江城は永享年間(一四二九~四〇年)に北条時任(ときとう)が築いた平城で、戦国時代には本丸、二之丸、三之丸の三郭を擁し、三重の堀で囲まれていました。城の大手門は海に面していたことから、当時の海岸線の位置がわかります。
今川勢がこの地域まで進出し、一五五五年に攻略されました。桶狭間の戦いで今川義元が討死した後の一五六七年、織田勢の滝川一益が奪還して再興。織田勢の北伊勢進攻、長島一向一揆鎮圧時の拠点となりました。
一五八四年の小牧長久手の戦いに際しては、秀吉が長島城の織田信雄と清洲城の徳川家康を分断すべく、一益を調略して両城の中間にある蟹江城を奪取。
しかし、家康と信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末に落城。翌一五八五、天正地震により壊滅しました。
江戸時代になると蟹江の町は佐屋代官所の支配下に置かれ、商業や交易の町に変貌していきます。
津島街道(上街道)と津島神社
来月は佐屋街道の北側を通る津島街道(上街道)についてお伝えします。乞ご期待。