十二月になりました。冬本番です。くれぐれもご自愛ください。
一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りしています。今月は最終回、名古屋五口と名古屋商人です。
名古屋五口と脇街道
戦国時代の那古野荘の中心であった今市場、中市場、下市場を取り込むかたちで名古屋城下町が築かれました。
そして、名古屋城と宮宿を結ぶ碁盤割の南北の要路本町通と東西の要路京町筋と伝馬町筋。南北の本町通と東西の伝馬町筋の交差点が高札が掲げられる「札の辻」です。
城下町外縁には、志水口、大曽根口、三河口(岡崎口)、熱田口、枇杷島口の「名古屋五口」があり、脇街道につながります。
「札の辻」から伝馬町筋を東に進むと東寺町の南側を抜けて三河口に着きます。三河口から駿河街道、飯田街道につながり、拳母街道や岡崎街道に枝分かれしていきます。
「札の辻」から本町通を南に下り、橘町大木戸を過ぎて金山神社辺りから西に折れると佐屋街道です。本町通をさらに南下すると熱田口から東海道に入ります。
「札の辻」から本町通を北上、外堀の手前で京町筋を西に進み、堀川沿いに北上すると城下町境界である樽屋町大木戸に着きます。大木戸を抜けてさらに進むと枇杷島口。枇杷島橋で庄内川渡ると美濃街道です。
美濃街道は熱田が始点。東海道を東から進んでくると、熱田手前で美濃街道との分岐点に遭遇。そこから北上すると本町通につながり、城下のいずれかの筋を西に進み、堀川に着いたら川沿いに北上し、樽屋町大木戸に向かうのが美濃街道です。
京町筋を東に行き、城郭の東端を北に折れると上街道(木曽街道)に入ります。城の東大手門前の清水口を通って志水口に至り、そこから小牧宿に向かいます。
建中寺に至る手前の佐野屋辻から北に折れて進むと赤塚町大木戸です。ここも城下の境界であり、その先は下街道(善光寺街道)であり、大曽根口につながります。
東海道は幕府直営の五街道のひとつであり、佐屋街道と美濃街道はその附属街道。美濃街道は東海道と中山道の接続路です。
上街道(木曽街道)や岡崎街道は尾張藩の藩道です。名古屋城下から周辺地域への接続路であり、城下町中心部から放射状に延びるか、あるいは外縁部から街道が始まるように整備されました。
広小路と四間道
道路網の整備によって城下町を人々が往来し、城下町は発展。人口が増え、町家が密集し、大火に見舞われることもありました。
万治の大火(一六六〇年)は京橋筋の北を通る外堀沿いの片端筋と伏見町通の角付近から出火し、武家屋敷百十二軒、町屋二千二百二十八軒を焼失しました。
その頃、城下町は碁盤割から外にも拡大しつつあったことから、以後の火災時の延焼を防ぐために、碁盤割南端の堀切筋の長者町通から久屋町通までの道幅がそれまでの三間から十三間(約二十四メートル)に拡幅されました。後にその区間は広小路と呼ばれるようになります。
また、火災直後の寛文年間(一六六一~七三年)に尾張藩の命により火消六組が組織され、十七世紀末には八組千四百五十人の規模になっていました。
しかし一七〇〇年、再び大火に見舞われ、千六百四十軒余を焼失。火災後に堀川端の裏道が二間から四間に拡張され、四間道と呼ばれるようになります。
三家衆・除地衆・十人衆
度重なる火災にも屈せず、名古屋城下町は発展を続けます。
名古屋城下町に根付いた町人は、大きくは三つに分けられます。ひとつは、清洲越しに伴って名古屋に移って来た町人です。伊藤次郎左衛門などが典型です。
もうひとつは、藩祖義直が駿府から名古屋入りする際に同行した駿府越しの町人です。本町の菓子屋桔梗屋又兵衛、上七間町の紺屋小坂井新左衛門などです。
清洲越し、駿府越しのいずれにも関係ない町人たちが三つめです。寛文年間に美濃から来て金物商として地盤を築いた岡谷家、知多郡内海村出身で享保年間(一七一六~三六年)に納屋町で米屋を始めて豪商になった内田家、春日井郡小木村から城下に来て質商で成功し、天明年間(一七八一~八九年)には町奉行から米仲買人支配に任じられた関戸家などです。
尾張藩御用達商人は三家衆の伊藤家、関戸家、内田家を頂点に、除地衆、十人衆と格付されました。
豪商、豪農は熱田沖干潟で新田開発も盛んに行い、財を成しました。新田持豪長者として知られたのが海西郡の神野金之助です。
金之助の長兄友三郎は碁盤割の外縁部、広小路南入江町の小間物屋紅葉屋に養子入りし、三代目富田重助を襲名。商才を発揮して舶来輸入品の洋物屋として成功し過ぎたため、幕末、尊攘派藩士尾張藩金鉄組の襲撃を受けた紅葉屋事件が起きました。
来年からは山門に置かせていただきます
今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りしました。
長い間ご愛顧いただいておりますかわら版ですが、来年からは山門に置かせていただきますので、ご自由にお取りください。
皆様、よい年をお迎えください。