十一月になりました。寒くなってきました。くれぐれもご自愛ください。
一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りしています。今月は東寺町と南寺町と西寺町です。
宗派ごとに固まった東寺町
徳川家康は名古屋城下を守るため、戦に備えて寺町を造りました。
駿河町を起点とする飯田(駿河)街道と交差する西側の禅寺町通と東側の法華寺町通に沿って寺院を集めた場所が東寺町です。
寺は通りに面して山門を開いていましたが、西蓮寺と聖徳寺は駿河街道に向いていました。法華寺町と禅寺町の間を流れる小川は、排水路と同時に寺域を背割りで分ける境界線の役割を果たしていました。
東寺町は飯田街道、駿河街道、岡崎街道の入口に当たり、神君家康公の生誕地岡崎を守るための拠点として整備されました。
二代藩主、三代藩主の時代には幕府との対立も懸念され、東寺町は幕府軍の東からの侵入への備えでもありました。
東寺町周辺は上中級藩士の屋敷が立ち並ぶ地域であり、藩主別邸である御下屋敷の南西に位置し、尾張徳川家菩提寺の建中寺にも近い場所です。
東寺町には清洲越しで約四十の寺院が移転。その後も寺院は増え、幕末期には七十ヶ寺を超えます。
東寺町の特色は宗派を固めて配置したことです。東寺町がほぼ整った頃には、法華寺町通に日蓮宗系十六ヶ寺が集中したことが最大
の特徴です。因みに、南寺町には日蓮宗系寺院はありません。
禅寺町通の東側には曹洞宗十ヶ寺、西側には浄土宗四ヶ寺が並び、宗派ごとに整然と配置されていました。
一六八五年頃より、南寺町の門前町、裏門前町と平仄を合わせ、東門前町と呼ばれるようになります。東寺町は通称です。
大須と呼ばれた南寺町
宮宿に続く熱田道の両側に設けられたのが南寺町です。南寺町の中心は大須から移転した真福寺(大須観音)であるため、大須は南寺町の代名詞となりました。
東別院、西別院も南寺町の域内です。当初、浄土真宗の大谷派と本願寺派は城下には入れませんでした。戦国時代に一向一揆が多発し、家康も三河一向一揆で苦労したことが影響しています。二代藩主光友の時代になって東西別院の建立が許されました。
江戸時代初期の記録を見ると、本町通の東側には万松寺を筆頭に曹洞宗十五ヶ寺、臨済宗六ヶ寺、浄土宗三ヶ寺、西側には浄土宗六ヶ寺、真言宗は真福寺を含む二ヶ寺が密集していました。
南寺町の賑わいが最盛期を迎えるのは、七代藩主宗春の時代です。幕府では八代将軍吉宗が質素倹約を旨とする享保の改革を行っていましたが、宗春は真逆の治世を推し進め、芝居や芸事を奨励し、南寺町は賑わいました。つまり、大須の基礎を築いたのは宗春と言えます。
万松寺西隣には、織田信雄が信長の菩提を弔うために建立した総見寺、北側には若宮八幡宮と政秀寺、本町通を挟んだ西側には松平忠吉縁の大光院、大須水天宮と呼ばれた清安寺、御土御門天皇の勅命で創建された富士浅間神社、尾張名古屋の三名水井を擁する清寿院、そして大須観音と七寺、これらが全部隣接し、しかもそれぞれが広い寺領、社領を有したことから、この一帯の壮観さが想像できます。
中でも万松寺の境内の広さは圧巻でした。境内は約二万三千坪に及び、名古屋城下町における特別な位置づけが伺えます。
西寺町と枇杷島河原
東寺町と南寺町と比べると、その存在が知られていないのが西寺町です。
堀川沿いを北上すると、四家道、景雲端、幅下橋、円頓寺、明道町辺りを抜けて浅間町の辻に至ります。堀川沿いの美濃街道とその
周辺の道筋です。
美濃街道は浅間町の辻を西に折れて進みますが、その北側にあった新道筋には、海福寺、宝周寺、法蔵寺、西願寺、正覚寺などが並
び、西寺町を形成していました。
途中には白山神社や八坂神社があり、名古屋城下町を抜けて美濃街道経由で中山道から都に向かう旅人にとって、この辺りは定番の
休息処です。
その先は庄内川に架かる枇杷島橋です。橋の近くの庄内川東岸には近在の子供たちの遊び場であった枇杷島河原があります。
名古屋城が築城される約七十年前、吉法師時代の信長は枇杷島河原でよく遊んでいたと伝わります。河原には少し南の中村郷の稚児たちも来ていたそうです。その中に信長と三歳違いの日吉丸時代の秀吉もいたことでしょう。一緒に遊んでいたのかもしれません。そんな地域に造られたのが西寺町です。
本町通を熱田まで下ると、熱田神宮の西側、南側にも社寺が密集していました。古代から熱田社、宮宿の発展とともに寺社が増え、法持寺、本遠寺、大法寺、白鳥御陵や八剣宮などがありました。尾張藩の東浜御殿、西浜御殿も造営され、社寺とともに戦時には軍事拠点となり得る町の構えでした。
名古屋五口と名古屋商人
名古屋城下町を支えたのは街道と商人です。来月は名古屋五口と
名古屋商人をお伝えします。乞ご期待。