【第268号】大須観音・万松寺・東西別院

十月になりました。秋本番です。肌寒い日も増えますのでくれぐれもご自愛ください。一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りしています。今月は大須観音・万松寺・東西別院です。

大須観音と呼ばれる真福寺

碁盤割町人地の中には社寺が多数造営されました。とくに、碁盤割を南に下った辺りに規模の大きな寺院が建立されました。

大須観音の名で親しまれているのは真福寺です。発祥は建久年間(一一九〇~九九年)に創建された尾張国中島郡長庄大須郷の中島観音に遡ります。

一三二四年、後醍醐天皇が大須郷に北野社を興し、一三三三年、同社別当寺として真福寺が創建されました。戦国時代には織田信長
も寺領を寄進します。

中島郡は洪水の難が絶えず、一六一二年、徳川家康の命で犬山城主成瀬正成が真福寺を大須郷から名古屋城下に移転しました。

大須観音には尾張藩も保護した真福寺文庫(大須文庫)があり、古事記の最古写本をはじめ、扶桑略記、将門記、尾張国解文など、
貴書を多数蔵します。

隣接して七三五年行基開創と伝わる古刹、七寺(ななつでら)があります。七寺は大須観音以上に大いに栄え、境内で芝居や見世物
小屋が興行されていました。

身代わり不動の万松寺

万松寺は一五四〇年、織田信秀が織田氏菩提寺として那古野城の南側に建立しました。竹千代(徳川家康)は六歳で人質として今川義元から信秀に引き渡され、この寺で九歳まで過ごします。

信秀の葬儀は万松寺で行われ、嫡男信長が歌舞伎な格好で臨んで仏前に抹香を投げつけた話は有名です。

その信長が一五七〇年、越前朝倉攻めで浅井長政の離反にあって逃げ帰る途中、狙撃されました。鉄砲の玉は信長が懐に入れていた固い干し餅に当たり、九死に一生を得ました。餅は万松寺和尚から貰ったものであったため、信長は万松寺不動明王の加護のおかげと深謝します。この話を聞いた加藤清正が万松寺の不動明王を「身代わり不動」と命名しました。

一六一〇年、名古屋城築城時に大須に移されます。江戸時代には尾張藩に庇護され、七堂伽藍の大寺院でした。

江戸時代に登場した東西別院

東本願寺十六代法主一如を開基とする真宗大谷派名古屋別院は、一六九〇年、二代藩主光友より碁盤割南縁部の古渡城址地約一万坪の寄進を受け、一七〇二年に創建。

通称東別院、あるいは東御坊、名古屋東別院、東本願寺名古屋別院とも呼ばれます。

一八〇五年の本堂再建に当たり、豪商五代目鈴木惣兵衛は真宗に改宗したうえで東本願寺に多額の寄進をし、使用する材木一切の調達を一手に請負いました。

東別院は東海道方面からの敵勢進軍に対する城下町防衛の砦としての役割も担っていました。

東別院北西には本願寺名古屋別院があります。東別院に対して西別院と呼ばれます。

明応年間(一四九二~一五〇一年)に本願寺八世蓮如の六男蓮淳が伊勢国長島に創建した願証寺が始まりです。

織田信長による伊勢一向宗攻めで廃寺となり、その後、本願寺十一世顕如が織田信雄に願い出て清洲の地に願証寺を再興。

一六〇九年、清洲越しの際に桑名に寺基を、名古屋城下に寺を移転し、名古屋願証寺は桑名願証寺の通寺とされました。

一七一五年に桑名願証寺が転派したことに端を発し、一七一七年、名古屋願証寺は西本願寺末寺の名古屋御坊となりました。

濃尾崩れの栄国寺

東別院の北西、西別院の南東に栄国寺があります。江戸時代初期、この辺りは千本松原と呼ばれ、尾張藩の刑場がありました。

尾張国、美濃国では、織田信長や信雄がキリシタンを保護したため、キリスト教が広がっていました。清洲藩主松平忠吉、尾張藩の藩祖義直、二代光友も寛容でしたが、徐々に幕府の統制が厳しくなります。

一六三一年から藩内でキリシタン伝道者の処刑が始まり、一六四九年に供養塔を建立したのが当寺の始まりです。

一六六一年以来、尾張藩も多くのキリシタンを捕縛。一六六五年、尾張藩は伝道者二百余人を処刑することで他のキリシタンの助命を企図。しかし一六六八年、幕府の命令でさらに二千余人を処刑。

美濃でも同様の展開であったため、この史実はキリシタンの濃尾崩れと言われます。

一六六二年、二代藩主光友は刑場を土器野(かわらけの、新川)に移し、千本松原の供養塔の場所に処刑者慰霊のために堂宇を建てて清涼庵と名付け、一六八五年に栄国寺と呼ばれるようになりました。

凄惨な史実の背景には、幕府が尾張藩に対する統制を強める目的もあったようです。

東寺町と南寺町と西寺町

名古屋城下では主に三つの地域に寺町が造られました。来月は東

寺町と南寺町と西寺町です。乞ご期待。