【第266号】碁盤割りの町人地

八月になりました。酷暑が続いていますが、くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りしています。今月は碁盤割りの町人地についてです。

九十七街区の碁盤割り

名古屋城の南に東西十二通、南北十筋で区切られた九十九街区の碁盤割の町が整備されました。南東角は二街区で一街区としたことから、正確には九十七街区です。

那古野城の時代から城の南には町が形成されていました。那古野城址に名古屋城を築城することになりましたが、城址南側には今市場、中市場、下市場があり、これらを包含する形で碁盤割が整備されます。

一六一二年、家康が町割の進み具合を検分した際、三之丸の堀と町人地の間が広すぎると注文をつけました。城下繁栄の帰趨は町人が集まるかどうかにかかっていることを認識していた家康は、城を隔離するより、城と町人地を一体化させることが念頭にあったようです。

その結果、碁盤割町人地の最北部の街区は南北の長さが二十間(約三十メートル)ほど拡がり、城との距離が近くなりました。

碁盤割の背骨は本町通り

南北の通は西端が御園町通、東端が久屋町通、東西の筋は北端が京町筋、南端が大江町筋です。京町筋の北側に片端筋もありましたが、京町筋と片端筋の間は武家地であり、藩政機関や上級藩士の屋敷がありました。京町筋から南が町人地です。

各区画の中央には会所と呼ばれる空地があり、寄合所や社寺が建てられました。道に面しては商家が店を並べました。狭い間口ですが奥行きは長く、坪の内と呼ばれる庭もありました。京都の町家と似ています。

家と家の間にあって「閑所」と呼ばれる袋小路の小道もありました。「会所」が訛って「閑所」になったとか、家と家との間を通るために「間所」が「閑所」に変化したとか、諸説あります。狭い「閑所」の両側には長屋が立ち並び、多くの町人が住みました。

清洲から町ごと、商家ごと、人ごと越してきましたので、同じ職業、同じ商売の店が軒を並べた街区が多くなりました。

碁盤割の中心、言わば背骨は城の真南を南北に貫く本町通。一番北端には町奉行所と評定所があり、そこから南が町人地です。

藩主参勤交代、朝鮮通信使、琉球使節等が往来する場合は本町通を使います。沿道は藩士や見物の町人で溢れたそうです。

名古屋城下町を彩った名物商人

本町通の北端は本町です。一六一一年、本町通と京町筋の北西角で織田信長の家臣だった伊藤源左衛門祐道が呉服小間物商を始めま
す。一六五九年、祐道の子祐基の「現金売り正札付き掛け値なし」の商法が大当たりし、後の伊藤呉服店に発展します。

伊藤呉服店と京町筋を隔てた向かい側は、藩主召服を調進する尾張家呉服商茶屋長意の屋敷。茶屋家は武士であり、商人でもある両
属的性格を持つ特別な存在でした。

名古屋城下に進出する商人の目標は本町通に店を構えることです。一六三四年、猿屋三郎右衛門が本町に饅頭屋を開業し、一六八六年に二代藩主光友から「御菓子所両口屋是清」の看板を拝受しました。

本町を南に進むと小田原町。魚の棚筋(永安寺町筋)の桑名町通から本町通までの地域です。河内屋林文左衛門が料亭河文を開業す
ると御納屋、近直、大又等の同業者が次々と開業し、魚の棚四軒と呼ばれました。

さらに碁盤割を三街区南下すると、東西の道の中心である伝馬町筋と交差します。本町通と伝馬町筋の交差点は通称「札の辻」。高
札場や飛脚問屋もある城下町の中心部です。「札の辻」の北西角の街区には桜天満宮(桜天神)がありました。

さらに南下すると、繊維問屋の集まる下長者町、鉄砲や金具職人の鉄砲町、そして八百屋町を過ぎると南寺町に向かいます。

本町通北端の東側、両替町の東は京町です。呉服、細物、太物類の商人が集まったので京町と呼ばれました。薬問屋の井筒屋中北伊助が京町に店を構えました。

鍛冶屋町の西は大津町。織田家の繁栄ぶりを聞いて清洲にやってきた山城国大津四郎左衛門が住んでいた町が、清洲越しでこの地に移転し大津町となりました。

清洲越しと駿府越し

甲府藩主義直は甲府にお国入りすることなく、家康や生母お亀の方ともに駿府城に在城。一六〇七年に清洲藩主(尾張藩主)に転封
された後も駿府城にいましたが、家康没後の一六一六年に名古屋入り。その際、駿府在住家臣や社寺、商家の一部が義直に従って名古
屋に移住。つまり駿府越しです。

名古屋の町は清洲越しと駿府越しの町人を中心に始まりました。京町筋の伏見町通から桑名町通までの和泉町には尾張藩御用達を務めた桔梗屋が出店。桔梗屋は藩祖義直入城時に駿府から同行して駿府越しした商人です。

京町筋西端は堀川であり、五条橋から堀川の東岸を南に下ると元材木町、下材木町。豪商材木屋鈴木惣兵衛が店を構えました。

東照宮・那古野神社・若宮八幡宮

城下町には多くの寺社がありました。来月は東照宮・那古野神社・若宮八幡宮などについてお伝えします。乞ご期待。

1件のコメント

  1. 未だに400年近く続いている商家を鑑みるに家康の町づくり、名古屋の基盤づくり、先見性に感服します。
    またその商家もしっかりと尾張徳川家を支えて御三家筆頭として現在まで大都市名古屋を盛り立てて来ました。
    各商家の歴史を振り返るのも面白い試みかと思います。