七月になりました。夏本番ですね。くれぐれもご自愛ください。
一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りしています。
今月は武家地と建中寺です。
那古野と名古屋
那古野と記した地名は、清洲越しとともに名古屋と書かれるようになります。古くは名護屋、浪越、名越とも記し、名古屋城築城が決まった頃から名古屋と名護屋が併用され、次第に前者に定まっていきました。
名古屋には蓬左の別名もあります。蓬莱は中国の伝説で東の海にある不老不死の島のことを意味し、古来、熱田も蓬莱に準えられました。その蓬莱地の左に開けた町として蓬左と呼ばれるようになります。
名古屋の語源には諸説あります。「なご」は、気候や風土が和やかな地、霧(古語で「なご」)の多い地、山や丘陵の麓の集落、城砦をめぐる兵舎、波が高い海岸、等々様々な意味があります。漢字が「名古屋」になった経緯については、調査中です(笑)。
町名は後付けの武家地
藩重臣たちの屋敷は城の南側を護るように三之丸に配置されました。成瀬、竹腰の両御付家老の屋敷南に山澄将監、渡辺半蔵などの上級家臣の屋敷が本町通沿いに続き、この辺りは大名小路と呼ばれました。
城の東側はやはり両御付家老の中屋敷、下屋敷とともに、上級家臣の屋敷が立ち並びます。その南側には中級家臣の屋敷が集められました。
武家地には町人地のような町名はありません。町の特徴などから自然発生的に、あるいは後世に呼ばるようになったものです。
城の東側の外堀に面して御付家老の中屋敷がある長塀町、その東に白壁町、主税町、橦木町が順序良く並んでいました。家格の高い
藩士ほど城に近い場所に屋敷を構えました。
東大手門の東は長塀町です。御付家老竹腰家の屋敷塀が非常に長かったことから、そう呼ばれるようになりました。
白壁町は、御目付豊田太郎右衛門が屋敷に白壁の高塀囲いを造り、周辺の屋敷も白壁が多かったことから名前がつきました。
主税町は勘定奉行野呂瀬主税が住んだことに由来します。野呂瀬氏はかつて武田信玄の家臣でしたが、時代を経て徳川義直の下で成
瀬氏に属し、勘定奉行を務めました。
主税町には、元禄年間(一六八八~一七〇一年)頃の藩士の日常生活や風俗を記した「鸚鵡籠中記」の著者、御畳奉行朝日文左衛門
重章の屋敷がありました。
朝日文左衛門は、御畳奉行になる前は主税町ではなく、建中寺の東隣にある百人町に住み、そこから引っ越したようです。百人町は
足軽組頭であった渡辺半蔵家が代々住んでいたことに由来します。
橦木町は、東西に通る道路の西端が行き止まりで「丁」字路になっていたことに由来します。つまり撞木の形です。撞木とは鉦を打
つ道具で、柄の先端が「丁」の字になった棒のことです。本来は手偏の「撞」が正しい字でしたが、後世、役人の転記誤りから木偏の「橦」になったと伝わります。
上中級藩士の武家地の外側や城の南側には中下級武士の屋敷、碁盤割の東側には同心や足軽が住みました。中級武士の家は屋敷と言
える構えでしたが、下級武士の家は長屋づくりです。
義直菩提寺の建中寺
主税町と百人町の間に創建されたのが建中寺です。一六五一年、二代藩主光友が父義直の菩提を弔うために、成誉廓呑上人を開山として建立しました。
寺域は約五万坪に及び、創建当時は周囲に石垣と堀を備えた城のような構えでした。本堂をはじめ多くの堂宇が立ち並ぶ大寺院で、歴代藩主の霊廟が造営されました。
江戸時代を通して特定の宗派に属さない別格本山(無本寺)であり、御付家老成瀬家が創建した宗心院、渡辺家が創建した誓安院のほか、甲龍院、全順院、正信院、光寿院、養寿院の七つの塔頭寺院と多くの末寺を擁しました。
一七八五年、大曽根で大火が発生した際、燃える布団が舞ってきて本堂の屋根に落ちて延焼。大部分が焼失しましたが、二年後に再建されました。
境内南端に薬医門形式の総門、その北には三間一戸の二重門である三門が立ち、門をくぐると正面に本堂があります。本堂は入母屋造、本瓦葺きで、正面には軒唐破風のつく向拝が設けられています。
本堂の後ろには徳川家霊廟があります。霊廟は、拝殿と本殿が連結された権現造であり、極彩色が施された華麗な社殿です。境内に
はこのほか、四脚門形式の御成門、鐘楼、開山堂、不動堂、経蔵などがあります。
建中寺の南西に角を接する藩主の御下屋敷は、一六七九年に二代藩主光友が築きました。六万四千坪の広大な敷地です。
七代藩主宗春は屋敷内に薬草を栽培する「御薬園」を設けました。八代将軍吉宗の享保の改革に反する藩政を行ったことで蟄居を命じられた宗春は、晩年を御下屋敷で過ごしました。
碁盤割りの町人地
来月は、武家地や寺社地に守られるように造られたの名古屋城下町の代名詞、盤割りの町人地についてです。乞ご期待。