【第264号】軍都名古屋

六月になりました。梅雨の季節です。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りします。今月は軍都名古屋です。

庄内川・堀川・荒子川・笈瀬川・江川

名古屋城と城下町は西からの豊臣勢の進軍、攻撃に備えて造られました。

西国大名を中心とする豊臣方が東進してきた場合、名古屋城は重要な軍事拠点になります。名古屋城の北西側を防衛線として意識し、庄内川を天然の堀に見立て、縄張り、築城、城下町形成が行われました。

城下町西を南下する庄内川の東、つまり城下町の西には堀川が開削されました。堀川は名古屋城と海を結ぶ水運路であるとともに、城下町防衛のための堀でもあります。

さらに、庄内川と堀川の間には、西から荒子川、笈瀬川、江川の三河川があり、これも防衛線に寄与します。

庄内川から三河川を経て堀川に至るこの地域は広大な田園地帯であり、村が散在していました。名古屋城及び城下の大寺院の屋根から見晴らしがきき、敵勢の進軍の様子が一望に見えます。村々は堀川に至る過程で戦いの拠点にもなり、よく考えられた配置です。

庄内川を渡河する場合、橋が架かっているのは美濃街道だけです。つまり、庄内川に架かる美濃街道の枇杷島橋を崩落させれば、西から来る敵勢を足止めすることができます。敵は渡河するしかありません。

西寺町・東寺町・南寺町

庄内川、三河川、堀川を越えて城下町に侵入された場合、城とともに、西寺町、東寺町、南寺町が防衛拠点になります。

枇杷島橋と城下の間にある西寺町は最初の防衛拠点です。

城下から東に撤退する場合、それを追う敵を東寺町で迎え撃ちます。東寺町も突破されれば、岡崎街道、駿河街道を通って後退することを企図していました。

南下する敵勢は南寺町が迎え撃ちます。南寺町も陥落した場合は、熱田、宮宿まで撤退し、東海道と海路による退却が可能です。

よく考えて構築された名古屋城の城下町ですが、その骨格を形成したのは城下の道、及び周縁部とつながる街道です。

東西十二通、南北十筋の道が碁盤割を形成していましたが、南北は本町通、東西は城郭のすぐ南を通る京町筋と碁盤割の中央を横切る伝馬町筋が中心です。本町通と伝馬町筋の交差点は札の辻です。

京町筋の西端から枇杷島に向かって庄内川を渡河するのが美濃街道です。

京町筋を建中寺角から北に向かうのが下街道(善光寺街道)。大曽根を経由して犬山、美濃方面に向かう北の撤退路です。

札の辻から南東方向へ向かう飯田街道もありました。飯田街道は途中で分岐。岡崎に向かう駿河街道、岡崎街道は撤退路です。東海道経由よりも直線的かつ短時間で岡崎に至ります。

名古屋城と宮宿をつなぐ南北の幹線道は本町通です。本町通を南下して途中から西に向かうのが佐屋街道、熱田からさらに南下して東に向かうのは東海道です。佐屋街道は美濃街道と同じく、攻め上られた時には封鎖の対象です。
このように、碁盤割の東南北は主要街道とつながり、西は豊臣方との戦を考慮して城下町が形成されました。

八事興正寺の深層

八事一帯の山々は御付家老ほか重臣たちの「控え山」として配されました。名目上は薪炭確保のために使われる山ですが、戦時には各家臣が山々に籠ることを想定していたと考えられます。

八事興正寺が創建されたのは一六八八年。既に豊臣が滅んで半世紀以上経ち、幕藩体制が確立した頃です。

実は、尾張藩祖義直(在位一六〇七~五〇年)、二代藩主光友(同一六五〇~九三年)と、三代将軍家光(同一六二三~五一年)、四代将軍家綱(同一六五一~八〇年)は緊張関係にあったと言われます。

義直、光友は神君家康公の子、孫である一方、家光、家綱は孫と曾孫です。尾張藩主は将軍よりも神君の血統が濃いことや、義直は大坂の陣にも参戦した最後の戦国武将であり、将軍家に対しても臆することはありませんでした。

家光が二度の上洛時に名古屋城の叔父義直のもとに挨拶に行かなかったこともあり、一六三五年、家光が参勤交代を命じた折に義直もなかなか江戸に行きませんでした。、ようやく登城した義直に対して、家光は「鳴海表まで迎えに参ろうかと思い候」と言ったと伝わります。

将軍が鳴海表まで迎えに行くというのは、軍勢を引き連れて攻め込むことを意味していました。義直と家光は三歳違い。徳川家の主導権を巡って緊張関係にあったことが伺えます。

八事興正寺の創建、八事「控え山」への家臣の配置等々は、実は幕府軍西進、つまり将軍家と尾張藩が戦になった場合の備えだったとの見方もあります。

武家地と建中寺

名古屋城下町は、河川、街道、寺町だけでなく、武家地も計画的に配置されました。来月は武家地と建中寺です。乞ご期待。