【第261号】名古屋開府

三月になりました。春本番ですね。まだ寒い日もあります。くれぐれもご自愛ください。

一昨年から「尾張名古屋・歴史街道を行くー社寺城郭・幕末史―」をお送していますが、今年は名古屋城と名古屋城下町をお送りします。今月はいよいよ名古屋開府です。

清洲城断念、那古野城址選択

一六〇〇年、関ヶ原の戦いによって家康が天下をほぼ掌中に収めると、那古野改め名古屋の新たな歴史が始まります。

家康は天下を掌握したものの、依然として大坂に豊臣秀頼、西日本を中心に豊臣恩顧の大名、武将が布陣する中、豊臣方との最後の戦いに備えます。

家康は東海道、中山道を重要街道と定め、東西の要路を固めます。東海道については一六〇一年に五十三次設置を決め、順次宿場を整備していきます。

宿場には人馬を常備し、徳川家や幕府の役人のための本陣、脇本陣を置き、高札場を設けました。宿場に置かれた飛脚や早馬を使い、伝令や情報を速やかに伝達する体制を築きます。

続いて家康は、豊臣方の侵攻への備えとして、木曽三川が流れ、交通の要衝である尾張に防衛拠点を築くことを考えます。

当時の尾張の拠点は清洲城でしたが、いくつかの問題がありました。沖積低地の清洲では五条川がしばしば氾濫を起こし水害が多いこと、水攻めされれば兵站補給に窮すること、城郭が狭いため多くの兵の駐屯が難しいことなどです。さらに、一五八六年の天正地震で液状化が起き、復旧がうまく進んでいませんでした。

家康は清洲城を拠点化することを断念し、新しい城の建設候補地として、那古野、古渡、小牧山などを検討しました。そして、那古野を選択します。

家康がその那古野を選択した理由はいくつかあります。

第一に、洪積台地の西北端上に位置し、水害の心配がなかったことです。

第二に、台地は標高五丈(約十五メートル)ほどあり、台地外縁の西面と北面は切り立った崖です。崖下は低湿地であり、防御に適し、攻められにくい地形でした。台地上から西北方向の平野部を一望でき、西からの敵勢の進軍を監視するのにも適していました。

第三に、台地西北部を取り囲むように半円形に流れる庄内川と木曽川の流路は、天然の外堀と言えました。

第四に、後背地となる那古野村の町家は東南方向の台地上にあり、この村を城下町とすれば合戦時に焼き討ちされることを防ぐのには好適地でした。

第五に、その那古野村と周辺の町との間には道路網が形成されていました。

第六に、南に伊勢湾に面した宮宿があり、台地の西端に沿って堀を開削すれば、築城物資の輸送水路や合戦時の海への後退路、脱出路を確保することも容易でした。

山下氏勝と伊奈忠次

一六〇七年、家康に那古野を進言したのは山下氏勝です。氏勝は一五六八年に飛騨国白川郷の萩町城に生まれ、豊臣秀吉に仕えました。秀吉没後は家康に仕え、氏勝の妻が九男義直の生母の妹であることから、一六〇二年、義直の傳役に任じられました。

家康は一六〇九年に名古屋城築城を命じ、翌一六一〇年、西国諸大名の助役による天下普請で築城を開始。西国大名に財政負担を課し、忠誠を試すとともに、城の壮大さを豊臣方に知らしめる目的があったと思われます。

豊臣方と戦いになる場合、木曽川が防衛線となるよう、木曽川左岸に工夫を施します。御囲い堤です。敵の進軍時には堤を切ります。

一六〇八 年、家康は伊奈忠次に命じて御囲い堤建設に着手。二年間で完成しました。つまり、那古野城築城開始前に完成していました。御囲い堤は犬山から弥富まで延び、尾張地域を囲み込む防塁の機能を果たします。

幕府から美濃側の右岸堤防は「三尺低かるべし」との御触れが出て、御囲い堤によって美濃側は洪水が多く、一七四三年の宝暦治水までの約百五十年間に百回以上発生しました。

その結果、木曽川右岸(美濃側)には輪中が多く発達しました。最初の輪中は高須藩の中心地であった高須輪中です。

伊奈忠次は河国幡豆の小島城主伊奈忠家の嫡男として生まれ、一五六三年に忠家が三河一向一揆に加わったために家康の下を出奔。一五七五年、長篠の戦いに従軍して功を立て、帰参が許されました。

伊奈親子は家康の嫡男信康に付けられたものの、信康が武田氏と内通して自刃させられると再び出奔。和泉国堺で暮らしていました。

一五八二年、本能寺の変が勃発し、堺から家康が三河に逃げる伊賀越えの際に助力し、この功により再び帰参が許され、以後、家康に仕え、一六一〇年、御囲い堤の完成を見届けて亡くなりました。

名古屋城築城と天下普請

いよいよ来月は名古屋城築城と天下普請です。乞ご期待。